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「文学」と「SF」

現代社会の抱える根深い問題、
歴史の背後に潜む真実、
身近な問題でありながら、誰もが眼を背けている大切なこと
愛、憎しみ、暴力、欺瞞、死、絶望、希望など、
生きていく上で、誰しも逃れられない問題…。

それらはいかなる人間にとっても、
いま最も重要な問題、とされる。
それらを主題として真面目に扱っているものが「文学」。


一方,「SF」が扱うのは、

遥か数億年も未来や過去のこと。
我々の世界を含むかもしれない高次元や、
すぐ隣に存在するかもしれない異次元のこと。
いつか出会えるかもしれない異星人や、地球外生命のこと。
未知のテクノロジーの拓く驚異の世界。
宇宙の最期のこと…。

それらは、普通の人間にとって、
さしあたり真剣には取り合わなくても良いこと、とされている。

でも、SF者にとって、
それらのテーマこそ最重要で,あくまで真剣だ。


いうなれば……
「思想」に近いのが文学で,
「哲学」に近いのがSFだと思う。

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本当にがんばっているのか問題

ついがんばってしまう性質の人っていると思う。
でも、そういう人は本当にがんばっていると言えるのだろうか.
そういう人は、何事にもがんばることが自然な状態なのであって,
がんばらないようにすることに、むしろ努力を要する。

もちろん、外からもがんばっているように見え、また自分でも「がんばっている」と思ったり言ったりするのだが,実は、それほどがんばってはいないのではないか。

むしろ、つい怠けてしまうタイプの人が,
やむを得ない事情によって,がんばるのことの苦手な自分に鞭を打ちながらがんばっているとしたら、
そういう人こそがんばっているといえるのではないか。
たとえ、外からはあまりがんばっているように見えないとしても。

こうなると、「努力測定器」というのがあったとして、何を計れば良いのだろうか。
目の前に現れている努力の量をただ計るだけではなくて,
その人にとっての、”がんばる/がんばらない基準線”からの差を計る、という必要が出てくる。

もしくは、”心理的な嫌さ”を数値化して,その大きさを加算する必要も出てくるのではないだろうか。

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がんばったからいいのか問題

結果はさておき、一生懸命努力したんだから評価して欲しい。
という言い方をよく聞く。

もし、原理は分からないが「努力測定器」というものがあって,
その人が内面的にどれだけ真剣にがんばったかが分かるとしたら、
その数値の高い低いは、「まじめさ」、とか「前向き度」、とかを計るということになるのだろうか。
それを入試のポイントに加算するとかということか。

でも、その測定の結果,
「がんばらなかった」のに高い得点を出している生徒が分かったとしたら、
むしろそっちを採りたくなるかもしれない。伸び代があるから。

実際、入試科の教官が採りたくなる生徒の順は、こうだろう。
 
 がんばらずに高い
 がんばって高い
 がんばらずに低い
 がんばって低い

でも、結局、言いたいのは,そういう実務的問題ではなくて、倫理の問題なのだろう。

あと、「がんばって」いる人は周りに良い影響を及ぼす。
そういう人の多い社会の方が暮らしやすそうでもある。


ところで、前線に兵士を送る司令官が自軍に欲しくなる兵士はどうだろうか。
こうではないだろうか。

 がんばって高い能力
 がんばらずに高い能力
 がんばって低い能力
 がんばらずに低い能力

無能な兵士は欲しくないが,どちらかというとやる気のある方を欲しがるのではないか。
士気の問題というやつだ。戦闘は集団行為だからだ。

まあそういうこと。
 


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スケール問題

物事は、大きさがある一定以上でないと、認識の範囲外、すなわち、ないことになる。

ビフィズス菌が腸内にいくらいても気持ち悪くないが,ギョウ虫だといやだ。
ビフィズス菌は、0.003mm。ギョウ虫は約1cm。
たしかにこの違いは大きい。


ではもう少し微妙な大きさだとどうだろうか。
ダニやシラミが体についていると卒倒するくらい気持ち悪いが,
成人の95%以上に寄生しているという顔ダニの話をいくら聞いても、それはないこととして扱っている。

イエダニは0.7mmくらい、シラミは2〜3mm。対して、顔ダニは0.3mm。

たしかに肉眼で見えるかどうかというのは重大だが、それにしても、0.3mmというのはギリギリではないか。眼を凝らしても本当に見えないのだろうか。


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グラデーション問題

ものごとはグラデーションというあり方をしている。

たとえば「頭がおかしい」という状態は、
明確に、ここからがこう、と分けられない。
しかも直線的な変化ではなく,
様々な次元の要素が絡み合った、複雑なグラデーションになっていると思われる。

むしろ感受する人によって,どこかの段階でその人は「明らかにおかしい人」,として認識されるのだが、
急に出会うとそう見える場合でも,普段からそばで暮らしていて,徐々にそうなっていった人をどこかの段階で「おかしい」と見抜くのは難しい。

もし、おかしい人ばかりの国があったらそれはおかしい国だろうか。
離れて見たらそうだろう.でもその国の内部の人にはそうは見えていない。

数十年前,戦争へと至ったこの国は「おかしい国」だったか。

おそらくいつの間にかそうなっていったとしても、
ほとんどの国民にはまったく気がつかなかったであろう。

まあそういうこと。


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すべてのことが「起き終わっている」として

ipodの中のデータにとって「時間」とはなにか、と考えたことから派生した考えのメモ

時間の流れ、というものはなくて,
この世のすべての出来事は、もう起きてしまっている。
その「すべての出来事」はメモリーに記録された音の情報のように、全部がだーっと、ただ、無時間に存在している。

のだが,
何かのはずみで、プレイボタンが押されると、ある「感受装置」の再生が始まる。
その状態が「俺」。

その”何かのはずみ”とは何か?
それはわからない。
ひとつ次元が上の、何者かによるものかもしれない。

つまり、ipodのようなものに無限に記録されているプレイリストのなかの”俺の体験”という1曲が、
何者かの気まぐれで”再生状態”にされている。それが俺の人生だということ。
だれが視聴してるんだ,こんなの(だれも見てないかもしれないが)。

すでに何度も語られた、SF的基本アイデアの一つ。
結局「無限」に逃げるしかないのか。

しかしこういう思考に関しては、基本的に
中2から何も進歩しないな。

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値しない

人生について悩み苦しむのはなるべく良くないことだから避けねばと思う。

人生などそれほどのことに値しないと思うから。

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過去を悲しむことの不可能性について

過去を悲しむことは不可能である。
例えば誰かの死を悲しむことは、その瞬間には出来るが,
時間が経つにつれ、どんどん不可能になっていく。
その理由について。

誰かの死は,その瞬間から、
その後の世界を生きている人たちすべてに
大きな影響を及ぼしはじめる。
その影響で、たまたまある一組の男女が出会い,
結婚し,子供が誕生する。

その子の人生は丸ごと,
その誰かの死がなければ存在しなかった。

もともと運命的に出会ったはずの男女であり、
必ずや子供をもうけたであろうと想像できるとしても,
一般的な生物学の見地からいえば,
受精の瞬間が1秒でも違えば,違う遺伝子の組み合わせになり,
まったくの別人が誕生したであろうと想像できる。


したがって、
ある人が、死ななければ良かった,
死んで欲しくなかった、と思うということは、
その後の時間における受精を経て誕生した人すべてが、
この世に生まれなかったことを望むということになる。

この論法でいけばもちろん、死だけではなく、あらゆる過去の出来事を、
悲しむとか,悔やむということが、すべて不可能になるのである。

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悔しさ2

悔しさを解消する思考法の一つが,運命論であり,神の導き論である

ああすればよかった、こうも出来たのに,
という可能性を消してしまうのだから,
確かに悔しさは消滅する。

だが、科学的思考は、運命も神も認めない道を選んだ。
その代わり,悔しさを手に入れてしまった。

が、一方で、
今ここにこうして生きていられることの幸運、そのありがたさは莫大である,
という認識も手に入れただろう。
 

堪え難い悔しさと同時に、代え難い幸福感も手に入れたのだ。

…と言えるかな。
(この議論、もう少し煮詰めないと駄目だナ)

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悔しさとは

人は、出来るはずのことが出来ないと思うと、辛くて悔しくて仕方ない。
だが、それが出来るということに考えが全く及ばない場合は,悔しくない。

目が見えないとか、足が不自由になって歩けなくなると悲嘆に暮れるが、
空が飛べない、ということを悲しむ者はいないし、
超能力のなさを悲しむ人間はいない。

旅行が不当に禁止されていたりすると悔しいが、
タイムトラベルが出来ないことはべつに悔しくはない。

北朝鮮の人民のうち、
海外旅行の楽しさを不当に取り上げられていると感じる者は不幸であり,
それを考えてみたこともない者は不幸ではない。

買ってもいない宝くじが当たらないのは当たり前だから悔しくはない。
だが、ひとたびくじを買って,当選の可能性を手に入れてしまうと、
外れるたびに非常に悔しい。

書いてもいない小説で賞が貰えなくても悔しくないが,
ひとたび何か書いてしまうと,何も貰えていないのが悔しい。

学生は、受かったかもしれない学校に落ちたのが悔しいし,
入れたかもしれない会社に入れて貰えなかったのが大変悔しい。

だが、なぜか悔しさというのは、もう少し拡張する。

自分が買ってもいない宝くじを、人が当てた話を聞くと悔しい。
自分は書いてもいないくせに,賞をもらった作家が妬ましい。
自分は受ける学力もない学校に、受かった人の話が腹立たしい。
自分は願書を出してもいない会社の内定を貰ったやつが憎らしい。


子供がある時点から、絵がうまく描けないことを悔しく思うようになるのは、
絵の上手い下手、というものが分かってきてからだ。
上手く描く努力をしたのかというと,そうではない。
でも、どうすれば上手くなるのかもわからないのだから、
努力のしようもない。
だけれども、自分の絵はうまい絵とは相当隔たっている、そのことだけは分かる。
そのことが分かってしまった時点から、悔しさが立ち上がってくる。

飛行機の狭いシートとかで、ひとたび足が伸ばせないことを辛いと思い始めると,
その後の時間がひじょうに辛い。
それが、妙に端っこの、そこだけ変な形の席に着かされたせいだったり、
だれかの置きやがった荷物のせいだったりすると,悔しさ×辛さは最高になる。


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死刑反対論の本当の理由

よくよく冷静に考えれば、おそらく死刑反対論者の本当の目的は、
権力者たちから自分たちがむやみに処刑されないようにしておく、
ということだろうと想像できる。

死刑執行という切り札を、権力者から取り上げてしまうことは,
権力の座につけなかった勢力にとっては、それは悲願だろう。

そうやって、死刑を廃止させることに成功した国が結構あるそうだが,
まずそれは本当にそうなのかと疑ってかかることも必要だろう。

死刑に代わる別のなにかが用意されているので、
死刑制度が必要ないだけではないか、ということもよく調べてみないと。

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味方をするということ

女性の味方をする、という人がいる。
65億人の半分の味方をするということだ。
そのなかには、とうてい容赦できない鬼畜のように極悪な女もいるだろう。
それでも味方をするのだとしたらすごい。

障害者の味方をする、という人がいる。
そのなかにも、とうてい容赦できない鬼畜のように極悪な障害者がいるだろう。
(想像しにくいだろうか。でも、どんな極悪人も障害者になる可能性はある。)

子供の味方をする、という人がいる。
そのなかには、とうてい容赦できない鬼畜のように極悪な子供もいるだろう。
(もっと想像しにくいだろうか。でも、どんな極悪人にも子供の頃があり、子供のうちから極悪であることは可能だ。)

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子供たちの政治

子供たちの遊びを眺めていると、もう政治の原型が現れているのが分かる。

極論すると、いじめは子供たちの政治だ。

そして最終的に命まで奪うのがそもそも政治だ。

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一大事だが、意味が違う

ある種の哲学者たちは、「死ぬと無になる」、ということに底知れぬ恐怖を感じている。

たしかに死は誰にとっても、最大の関心事だ。
だが、多くの人にとって、死の怖さとは端的に、
死にゆく時間が、人生で最も「痛く、苦しい」だろう、ということについてなのではないか。
肉体的痛みと同時に、全精神に迫り来る、まさしく断末魔の苦しみ。
筋肉や骨、内臓が痛むのは、鎮痛剤があるかもしれない。だが、呼吸が苦しい、身動きが取れない、
そしてそれが、いつ終るとも知れず延々と続く、などの苦痛は、気が狂いそうなほどに恐ろしい。

こうした死への恐怖と、哲学的な死への恐れとは、さまざまな議論の場で、意味がすれ違っている可能性がある。

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死は誰にとっても一大事か

「死ぬと、すべてが無になるのが恐ろしい」、と言っているような人は、
おそらく「死ぬのが惜しい」と思えるような、「いい人生」を送っている人だ。

いわゆる「恵まれている人」の方が、
比較的「死ぬのが惜しい人生」を送っていることが多く、
死について、哲学的な考え方をする。

少年は生活を保護されていることが多く、
人生の中でも恵まれた時期にあるので、
往々にして哲学的思索に耽ることが出来る。

もちろん、人生の「いい、悪い」は主観である。
この場合、客観など何の意味も持たず、主観のみが重要である。

多くの人は、それほど面白い人生を送ってはいない。
苦しいだけの日々、取り返しのつかない後悔の日々を送る人たちに取って、
いずれ来る死は、べつに一大事ではないという可能性がある。

誰もがつねに死を恐れ、死を最大関心事として生きていなくてはならない、という道理はない。
恵まれた境遇の人間は、往々にしてそうでない人間の思考法に驚くが、
じつはたいして驚くようなことではないのかもしれない。

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暴力vsお金

いまのところ、暴力に対抗できる力を持っているのは、お金だけであるように思える。

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政治というのは

頭の良い人ほど、人を道具として使うことが巧い。
サッッカーで言えば、すべて自分で蹴り込むのではなく、うまくほかの選手を使って、最後は自分の手柄に持ち込むような技術。

政治というのは結局のところ、他人を自分のための道具として使おうとする営みの集積ではないか?

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死刑廃止論は

死刑廃止論は結局のところ、国家に国民の生命を奪う権利を与えたくない、という感情から来ていると思う。

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予震

いかなる外見の違いや、身体能力、知的能力、思想、信仰などに関わらず、あらゆる人間、あらゆる人生には等しく価値がある、という考え方を、個人的には、物心ついてから、現在に至るまで、あたりまえだと感じて生きてきた。
(哲学的には、「等しく価値がない」、という考えもそれはそれであり得る。でも、「等しく」の部分は絶対変わらない、と思ってきた。)

教育も科学も芸術も、人間の営みはすべてそこが基盤であり、これからもそうであって欲しいと願う。

ただ、いま、これが世の中的には、揺らいできているのを感じる。
むしろ人類の歴史の大部分において、この考え方はけっして常識的ではなかったのであり、
そのことに気づく人の割合もどんどん増えてきているように思う。
そしていつ、雪崩を打つように我々のこの「常識」が、一斉に崩壊してしまわないとも限らないと思うようになってきた。

岡田斗司夫が「外見で人を判断する時代がやってきた」と言っているのも、その一つの表現。
学力ブーム、受験ブームも、結局はそこ。

恐怖しているあまり、口に出さない人も多いのだ。
口に出すと、認めていると取られるような気がして。

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もしもボックスはタイムマシンになるか?

「もしもボックス」に入って、「もしも1970年になったら」と言ったら、
1970年にタイムトラベルできるだろうか。

その「1970年」は「本当の1970年」だろうか。
そっくりに作られたニセの「1970年」だろうか。
まったく見分けがつかなかったらどうだろうか。

その「1970年」では、自分や自分の親を殺すことが可能だろうか?
可能なようにも思える。

それが「真のタイムトラベル」と、「もしもボックス」で作った世界との判別法といえるだろうか。

もしもボックスは、世界をまるごと瞬間的に作り出す道具、ということでいいだろうか。
それともあらかじめどこかに存在していた別の世界にジャンプする道具なのだろうか。
その二つは見分けがつくのだろうか。

あらかじめどこかに存在していた別の世界にジャンプする道具だとして、体ごと行くのだろうか。
それとも、あらかじめどこかに存在していた自分そっくりの人間の中に意識だけがジャンプするのだろうか。

あらかじめどこかに存在していた別の世界だとすると、
その人物が元々持っていた意識はどこに行ってしまうのだろうか。
それはそれで、瞬間的に分岐した世界に続いていくのだろうか。

(いずれにせよ一人の人間の意識の中から眺めている限り、見分けはつかないように思える)。

もしもボックスで作った世界から、元の世界に戻る、というのはどういうことだろうか。
そのとき、もしもボックスで作った世界には、誰が残るのだろうか。
自分だけが不在になるのだろうか。
それとも意識が分岐して、自分とは関係ないもう一人の自分が残るのだろうか。


そもそもタイムマシンというものが、もしもボックスの一種なのだとしたらどうだろうか。
行きも帰りも、その都度あらたに世界を作り出しているのだとしたら、どうだろうか。

セワシの「大阪問題」にもこれで解決がつくように思える。

セワシは、1970年にのび太の部屋にいきなり体とともに出現したようだが、
もしもボックスが体ごと移動する装置であればそれでいいし、または、
「1970年の正月に机から自分とまったく同じで意識だけが不在の体が飛び出した世界」
という大変都合のいい世界を作り出し、その体に意識だけをジャンプさせる方法でも良い。

帰るときにも、自分がもといた時代には帰らなくてよい。
「自分が干渉した世界がそのまま続き、かつ自分が生まれてきたという環境だけあり、
自分だけがぽっかりと不在になっている」世界
を作り出し、そこに体ごと移動していくか、または
「自分が干渉した世界がそのまま続き、かつ自分が生まれてきた」という、世界を作り出し、
そこにいる自分の肉体の中に意識だけジャンプしてゆけば良いのである。

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お金と自由

お金とは、物理法則に反しない限り、
人類が総体として手にした力のすべてを自由にできる可能性のあるものだ。

お金とは、人類の総力を保存・分割可能にしたものである。

お金とは、「自由」の切り売りである。

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自由

生きている上で、最高の価値は「自由」だと思う。

「お金」は「自由」のあきらかに下にある。

「自由」を保存したり、分配したりするために、「お金」というのものがあるのだと思う。

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