Posts categorized "哲学"

逆時計と自分殺し

逆時計は過去へ戻る機械だろうか。
そうではない可能性がある。
だとすると「自分殺し」が可能になるのではないかと思われる。

「自分が過去へ戻る」のではなく、「世界を過去の状態に戻す」のであれば、逆時計で行く先は、それは過去そっくりではあっても「過去」ではなく「未来」である。

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自分が行くのではないタイムトラベル

自分が行くのではないタイムトラベル

自分が過去に移動するのではなく、自分の周りの世界を丸ごと過去の状態に戻してしまうタイムマシンがあったら(他人の迷惑はこの際考えない)どうだろうか。

世界に対してCtrl+ Zを押し続ける装置とでも言おうか。

ドラえもんで言えば逆時計を回し続けるということ。

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タイムマシン完全無矛盾化理論

もう、
「可能世界」とかケチなことを言わないで、
親殺しだろうが、考案者のいない発明の突如とした出現だろうが、5分前世界創造だろうが、
すべてが急に出現する世界も、
すべてが急に終わる世界も、
つじつまの通っていることも、
通っていないことも、
もう本当に「すべて」が、完全に稠密に、全部最初からいっぺんにあるのだ。
ということを認めてしまえば、
タイムパラドクスなどの矛盾などなにも起きないし起きようがないのではないか。

で、そこまで言っても最期までたった一つ残る謎はやはり、
なぜその無限の存在の中の、今ここだけに、この私がいるのか、
という永井均的な謎だけである、

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自分と出会わないタイムマシンの可能性

過去に出かけて行っても、そこにいる過去の自分と出会わないようなタイムマシンはあり得るか。

ふつう、タイムマシンで過去に行くと、そこにはタイムマシンに乗る時点より前の自分がいるはずである。
その自分に対し直接であれ間接的であれ干渉してしまうことによって様々な矛盾が生じ、タイムマシンをめぐる議論を非常に厄介なものにしている。

そこで、世界がもし書き換え可能な物語のようなものだったらどうか。


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時間の流れの「復元力」について。

日常の中で、時間の流れの「復元力」を感じることがある。

本当はしたいと思ってることがあるのにその方向にどうしても体が動かないとか、
逆になぜか体がそちらへ動くのが止められないとか、
思ってもいないことをしゃべってしまい大きく事が動き出すのを自分でも驚いているとか。

これは自分が、それこそ無限回繰り返された宇宙の歴史のレールのポイントの所を通っているというときなのではないか。
時間のレールの分岐にはそこだけは動かないように固められた所がいくつかあるという感じがするのだ。
または水の流れの溝が特に深くえぐれていて他に流れていかないようになってる所というか。

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運命論の不思議

運命論の不思議

「運命は決まっているかいないか」。

この答えは人によって分かれるし、
その意味するところがバラバラだったりもする。

そもそも、「運命は決まっているかいないか」という問いは、
神の視点でしか言えないことを無理やり問うているような気がする。

「運命は決まっているかいないか」について、
当事者である人間が何らか言える場合があるとするとどんな場合か?

例えばもし、人生が1回ではなかったとしたらどうか?

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タイムマシンの行く先検索システム

タイムマシンが未来に行くとき、その未来は一個だろうか。
未来は枝分かれしていて無数にあるのだとすると、そのうちどれに行けば良いのだろうか。

現時点で最も進む確率の高い未来、というのがあるとして、例えばこういうイメージはどうだろう。
未来に対するGoogle検索システムのようなものがあると考える。
その検索結果の筆頭に出てくる未来が、現時点で最も行く確率の高い未来なのである。

つまりドラえもんが来てしばらく経つのび太が未来検索をすると、しずかちゃんと結婚する方向が筆頭に出てくる。
ただし時々その順位には変動がある。
のび太があまり慢心しているとまたジャイ子が筆頭に上がって来るのだ。
Google検索の結果が日によって常に揺らいでいるように現在にとっての未来も常に変動し続けているのである。

さて、ここで思いもよらぬ想像をしてみよう。
過去にタイムマシンで行くときにも、検索システムを作動させてみるのだ。
はたして過去は一つしか結果に現れないだろうか。過去は本当に一つなのだろうか。

セワシの視点に立ってみよう。
セワシが生まれてくるための筋道はすでに複数存在していることがわかるだろう。
現在に接続しうる過去もじつは無数にあり得るのである。

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タイムマシンの正体

タイムマシンはじつは「過去世界創造マシン」だと考えてみたらどうだろう。

ドラえもんとセワシが現れたあの瞬間に、あの「のび太の世界」は、過去の記憶も歴史の形跡も全部込みで、丸ごと創られたと考えるのだ。

セワシがその世界から未来に帰るときは、どこに帰るのだろうか。オリジナルの世界の未来に帰るのだろうか。

その場合も、改変した過去を含んだ新しい未来世界を丸ごと創造し、そこに帰ると考えればいい。そこでは、セワシの思惑通り、先祖はジャイ子ではなく静香になっているだろう。

とにかくタイムマシンは過去に行こうが未来に行こうが、運用されるたびに世界を丸ごと生み出してしまう。そういう原理で働いているマシンだということ。
言ってしまえば、「もしもボックス」とタイムマシンに本質的な区別はない。そう考えても差し支えないのではないか。

さて、ところで、タイムトラベラーがいたもともとの世界は、タイムマシン運用後、どうなるのだろうか。
例えばセワシがいた貧乏暮らしの世界は、セワシとドラえもんが不在なまま、ほったらかしなのだろうか。
だとするとそれは倫理的にいかがなものだろうか。家族は息子の突然の失踪に嘆き悲しむだろう。

これを解決するには例えば次のような仕組みを考えればよい。
世界を丸ごと創造することが可能なら、個人を創造することはそのごく一部であるから、より簡単だろう。
タイムマシンで出かけることで不在になる世界に、代わりに帰ってくれる個人を作ってあげればいいわけだ。

具体的には、タイムマシンがタイムトンネルの途中でなぜか不調になり引き返す、という現象を確率的に起きる選択肢の中に一つだけ入れておけば良い。

タイムマシンの利用者としては、何万分の1でそういう不調があるという仕様だとしても実際上はなんの支障もないだろう。


大事なのは、タイムマシン利用者の「この自分」意識が連続していることだ。
自分というのはその連続の中にしかないとも言える。
その意識が、「タイムトラベルが成功した自分」に連続する確率が十分なら、タイムトラベル利用は成り立つだろう。
(この点もやはり「もしもボックス」と全く同じだ)


それはさておき、いまわれわれが住むこの世界もそもそもどこかから来たタイムマシンが作ったのかもしれない、という考えはどうだ。一台だけの引き起こした小さな出来事だからだれも知らないだけなのだとしたら。

ほかにも無数の世界が同様に、何らかのタイムマシンが来ることから始まっていることだろう。

つまり創造主は未来にいるという話。


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もしもボックス論メモ(途中)

もしもボックス論。
~世界を丸ごと作るということ? すでにある別の世界に移るということ?

もしもボックスはおそらく無限に存在する並行世界を検索し、各世界間で<この私>の移動を行う道具である。
そしてタイムマシン(もしくは「タマシイムマシン」)も原理的には同じである。

数ある世界のなかから、一つだけが特別な<この世界>とされる。その違いを生み出し、他と分けている唯一の存在は<この私>意識である。

どの並行世界も等しく存在しているが、そこに<この私>意識がある世界が、いわゆるその瞬間の<この私>にとって「現実世界」と感じられているものである。

理屈の通る世界ならば無限にある並行世界の何処かにあっていい。あるはず。逆に、理屈が通らない世界はいかに無限とはいえ、やはりない。

もしもボックス利用者がリクエストに近い平行世界を検索し移動する際、移動するのは肉体まるごとの個人ではなく、<この私>意識である。

<この私>さえ別の世界に移動させられれば、並行世界探検であろうと、タイムトラベルであろうと簡単である。というか両者は本質的には同じものである。

移動者の<この私>意識が別の世界に行った後、元の世界にその人物が不在になるということはない。
そこにいる「私」には<この私>意識がないだけであり、それ以外、世界は何事もなく続いていく。

移動者の<この私>意識は、元いた世界に帰って来ることもできるが、帰らなくてもかまわないし、不慮の事故で帰れないという場合もある。

未来が無限にあるとする。
それぞれの未来でいずれタイムマシンが開発されるとすると、過去は無限のタイムトラベラーで埋め尽くされてしまうはずだ(フェルミ・パラドックスの時間版)。だがそうはなっていない。なぜだろうか。

過去に対して未来が分岐して増えていく、という世界観が間違っているからだ。
分岐解釈だと、未来に対して過去の数は、溯るにつれてどんどん減り、最後にはたった一つになってしまう(ビッグバン宇宙に類似)。

そうではなく、時間の中のどの瞬間にとっても未来も過去も無限にあると考えれば、過去へのタイムトラベラーがせまいところに殺到してしまう心配はない。

過去へのタイムトラベルといっても、旅行者自身の<この私>感覚にとっては未来への旅と同じなのだから、それは無限の選択肢があるはずなのである。

サイコロを振るということは、その瞬間、世界を6つに分裂させるということだろうか。
そうではなく、すでに存在し終わっている6つの世界のうち、どれか1つに<この私>意識が移っていくということなのだ。

時間が進む方向に並行世界が分裂して行くと考えるのではなく、初めから無限の並行世界が全時間を含めて存在し終わっていると考える。
その中を<この私>意識はあみだくじを進むように隣へ隣へと移りながら「時間」を進んでいく。
どの瞬間にも、無限の未来への可能性があり、また過去へ戻る筋道も無限にある。

そのなかで<この私>意識が連続していると感じられる唯一の筋道がなぜかあり、それが個々人にとっての時間の流れ感覚なのだと思われる。

あみだくじ型多世界論

ほんのわずかずつ違う並行世界がべたーっと稠密に隣り合わせに存在し、すべての出来事は起き終わっている。
稠密に隣り合わせなので、隣同士にはほとんど何も違いがないと言っていい。

<この私>意識は、そうして並んだ世界のうちの1本を真っ直ぐ進んでもいいし、隣へ隣へと飛び移りながら進んでもいい。
どれもあり得る<この私>であるが、<この私>にとっては、どれか1本が唯一<この私>辿った道に感じられる。

<この私>が稠密に並んだ隣の世界に頻繁に飛び移っていくという感覚は、たとえばさいころを振るといった別の世界を選択をしたことが分かりやすい行為をした場合に顕著に捉えられるが、実際はあらゆる瞬間に起きている。
結果としてどの瞬間の<この私>にも、自分の人生は一本道だったと感じられつつ、ほかの可能性もあったとも感じられる。

<この私>が時間を溯るタイムマシンに乗ったとする。行く先は「過去」だとしても、<この私>にとっては未来に進んでいく体験であることには変わりがない。これもまた別の興味深い問題である。

俯瞰的に眺めてみれば稠密にならんだ並行世界のどの瞬間にとっても、そこに至る筋道としてありうる過去は1つではなく無限にありうる。

「過去」への時間旅行は、いままで<この私>意識がたどってきた筋道の通りに溯ることも出来るだろうし、別の過去の筋道をたどることもできるだろう。

すでに起き終わっている全並行世界の全時点のうち、どこにどうやって<この私>を移すか、ということが「もしもボックス」か「タイムマシン」かの見かけの違いである。

<この私>を、あえてもと居た世界の肉体ごと移動させ、隣に移るだけなら「並行世界探検」になるし、さらに未来や過去に行けばいわゆる「タイムマシン」になる。
<この私>意識のみの移動であればそれは「もしもボックス」、未来や過去への移動も伴えば「タマシイムマシン」になるだろう。


さて、ここまでは並行世界への「移動」のみを論じてきたが、ここから世界の「複製」議論に入ろう。

なぜそれが必要かというと、今感じている<この私>と同等な、無数の<この私>があるだろうと考えられるからだ。それらとどう折り合いを付けていくのかという話である。

<続く>


参考:2ちゃんの議論メモ

http://totalmatomedia.blog.fc2.com/blog-entry-611.html


追記:1日経って読み返してみると、謎や矛盾だらけである。
ならばいずれなんとかしようと考える。
こういう場に文章を晒してみることに、そういう効能はあると思う。


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「この宇宙の外に何があるか?」

答えは簡単。だから無料です。

答え:「この宇宙以外の全て。」



そもそも

 「宇宙」とはなにか?
 「外」とはなにか?
 「ある」とはなにか?

答えよりそういう問いの方が重要ですね。


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