Posts categorized "トマソン"

「物件の向こうに人を見る」か

「物件の向こうに人を見る」というスローガンを掲げて登場したのは、
「広島路上観察倶楽部」。
1986〜7年頃発足。

トマソンのムーブメントの少し後、
赤瀬川さんも参加して「路上観察学会」というものが誕生した。
1986年6月。

トマソニアンたちの一部はその流れに反発した。
おれはどちらかというと赤瀬川さんについていく派で、時代の変化には柔軟に対応した。

そんな動きに呼応して、はじめて地方から誕生したのが、「広島路上観察倶楽部」と、「おかやま路上観察学会」。ほぼ同時に、それぞれ自然発生的に誕生した。

その2つの団体に、おれはほぼ同時に、均等に接することが出来た。
なぜならおれの実家は2県のちょうど境目の笠岡市にあり、
帰省を兼ねて容易に訪ねていくことが出来たからだ。
そんな偶然はなかなかない。

「路上観察」がもう充分に盛り上がっていた1986〜87年、
トマソン観測をベースとするのはもはや若干古かった。

「路上観察」はある種のバブルでであり、そこに乗り遅れるのは


(以下後日。最近そればっかりだな)


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トマソンに代わるものが今あるか

赤瀬川さんがトマソンという概念を発見するのは40代の半ば。
それまでの前衛芸術との、胃に穴をあけるような苦闘のすえ、
千円札を模写したり、印刷したり、梱包芸術、宇宙の缶詰…、
およそ表現というものの崖っぷちを走り続け、
離婚,父子家庭など、個人的にもギリギリの体験を経てたどり着いた境地だ。

そんな赤瀬川さんが、
もう「個人のなかから出てくる表現というものは限界だと思った」と言うのと、
20そこそこの大学生が「自分を超えたい」というのは、
並べて考えるのもはずかしいような動機だったりするのだが、
おれはおれで切実だったのだ。と、今からすれば思う。

とにかく下手な鉄砲もなんとか式で、
路上をうろつきまくり、トマソンを見つけまくった。
手がかり,足がかりを求めて。

しかし、いまやそんな自分が、ひと世代下の若者に、
何かを提示する順番にきているのは間違いない。

(書いているうちに題と違うものになった)。

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脳=自分という檻、の外に出てみたい

おれは「自分」というのは「檻」だと昔から考えていて,
そこから出るには、なにか自分の力以外のものが必要だと思っていた。

一方,「他人」とか「世間」とかとかいうのは、
けっして自分を自分の外の方には伸ばしてくれず、
大人になって社会と交われば交わるほど、
むしろますます「自分」を強化する必要があると感じていた。

自分がそのまま大きくなるだけで,いつまでたっても自分の外には出られないのだ。

人間は結局脳みそで考えた世界の中の堂々巡りを生きていて
生半可なことではその外には出られない。

とはいえ実際、その外に出るというのは恐ろしい。
だから体半分は中においといて、半身だけ外の空気に触れてみたい。

まあそんな感じ。

こないだから、トマソンの何に惹き付けられたかということを考えているのだが、
トマソンと向き合っていた当時の感覚と,
この、「自分の外に出たい」欲望とは、どこか通じていた気がするのだが,
まだ良く言語化できない。

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トマソンは現物がいちばんいい。

トマソンや路上観察の物件の良さって、写真の力だ,という部分もなくはないけど、
おれは現物がいちばん素晴らしいと思う派だった。

だから当時名品と呼ばれた物件はずいぶん訪ねて歩いたものだ。

お茶の水三楽病院の無用門、西神田のカステラタイプ、両国階段、馬場トライアングル…。

実物をさわったり、昇ったり、たたずんだりして、トマソンを含む空間に全身でひたるのだ。

作品の向こうに作者のいない芸術。
「報告者」はいるけれど、そのものを作った「制作者」も、意図もメッセージも何もない、「ただなぜかそこにある物件」
だからこそ、最も純粋に目の前のオブジェそのものに震えることができたのではないかと思う。

初めて来たはずの道に,見たことのある物件があってあきれたこともある。
しかもそれが途中でちょん切られた電柱。
たしか下北沢の「阿部定電柱」。瀧浦秀雄さんの報告物件で、
住宅街でうわー、これ知ってる!と叫んでしまって、瀧浦さんが撮ったのと同じ、てっぺんに登って足元込みで写す、というのもやった。
(もちろんこれは、煙突男、飯村昭彦さんへのオマージュだ)。

トマソンは、街を徘徊する体験とセットになっている。
「見るだけではなく、あなたも、報告してください」という決め台詞が、
たしかいつかの『写真時代』の赤瀬川さんの連載にあった。

そんな感じでおれは大学時代、1985年〜1989年の、
東京中の道をけっこう知っていたが、
どこで何が美味しいとか、安いとかの「お店の情報」にはてんで疎かった。

ふつう町の情報というのは,どうやらお店の情報のことらしい、
と気づくのは初めて恋愛らしい恋愛をしてからだった。

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トマソンとは何だったのか

「トマソン」という概念の由来と定義は、文献等が充実しているのでまかせるとして、
おれにとってはそれが18才の学生を寝ても覚めても虜にした,というところが重要なのだった。
なぜなのか。

おれの場合、それは「作者がいない」という、ほぼその一点だったと思う。

それが「芸術」か「超芸術」かとか、そういうことでもなくて,
とにかくでたらめで意味の無いものを面白がろう,などと、
世の中に対して斜に構えたことがしたかったわけでもない。

トマソンが何でないか,という方向からの説明でいえば,もうひとつ、
『VOW!』的ではないもの、いうことも当時すごく考えていた。
それはあきらかに当時台頭してきていた「サブカル的」なものの見方のひとつだが、
ああいう面白がり方にハマってしまった人には、
けっしてトマソンというものは理解できないだろうな,と思っていた。

(以下また後ほど)

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トマソン青春編4

ところで、トマソンってそもそもなんなのだろうか。
最初に俺がそれに出会ったのは、
南伸坊さんの『モンガイカンの美術館』という本の中でだった.
高二から高三にうつる頃だったか。
その本の中では「トマソン」という名前はまだなくて、「超芸術」と呼ばれてていた。

(まじでつかれてきたので本当にまた後日)

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トマソン青春編3

上原さんは、「美学校、行ってみればいいじゃん」と言った。上原さんの紹介で、当時住んでいた高円寺にたまたま住んでいた広瀬勉君という人に会ってみることになった。彼も美学校で赤瀬川さんの教室で学び、OBとして毎週土曜日に赤瀬川さんの「考現学研究室」に顔を出しているという。

時を同じくして、驚くべき濃密さでトマソンがおれに降り注いできた。(以下疲れたので後日)


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トマソン青春編(続き2)

メールはおろか留守電もなかった時代。
あるときおれの友人が、おれの留守中に部屋のドアに貼り紙を貼っていった。
「『写真時代』を立ち読みしてたら、徳山君の写真がいっぱい出ていたぞ!」

転がるように本屋に飛んでいった。
そこにはおれが立て続けに固めて送ったトマソンの投稿が、「ヒット、二塁打、三塁打、ホームラン」と全部載っていた。
「サイクルヒットおめでとう。」との赤瀬川さんのコメント。
それまでの、おれの人生の絶頂の瞬間だった。

(続く)

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トマソン青春編(続き)

上原善二さんという、椎名誠のエッセイにも出てくる編集さんのことを、あるとき、白夜書房「写真時代」で赤瀬川さんが連載していた超芸術トマソンの投稿者の中の一人だ!と気づいた。

本の雑誌社になぜそういう人がいて,なぜまたおれは、椎名誠ファンだというまったく違う回路から、この人に出会えたのか不思議ではあるのだが、トマソンを集めた写真アルバムを上原さんに見せた。「いい物件じゃん」と上原さんは普通に褒めてくれた。それでおれはどこかを留めていたピンが外れたようになって、「写真時代」宛で一挙に「トマソン報告書」の投稿を送った。

時を同じくして、「乱調社」にておれは浅羽氏が提案したイベント「トマソン観察ツアー」のコーディネートをしていた。「乱調社」の拠点、早稲田を出て、神楽坂を通り,高田馬場界隈を歩き回るツアーだった。

(以下続く)

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トマソン青春編(メモ書き)

一般教養1コマぶんの4単位しか取れなかった一年生を終え、久々に大学に行くと、膨大なサークル勧誘の貼り紙に混じって気になる貼り紙があった。無数の奇妙なキーワードがびっしり書き込まれたその中に「超芸術トマソン」という言葉があった。最後に書かれていた電話番号に電話した。

「乱調社 浅羽通明」と名乗るその人物に電話すると,意外なほど陽気な人物で、ノリノリの会話は1時間以上にわたり盛り上がった。トマソンに興味があるというと,浅羽氏、「自分はもう4個ぐらい見つけた」とのたまった。おれが「ぼくはだいたい100個は見つけてますけど…」というと吃驚し、「すぐ写真を持ってきてくれ!」と言われた。

ほぼ時を同じくして、おれは『本の雑誌』の片隅に載っていた「助っ人募集」の記事に釘付けになっていた。助っ人とは、基本的に報酬のないアルバイトだ。ちょっと勇気を振り絞るため、数少ない大学の友人をひとり誘って新宿5丁目の、本の雑誌社に行った。

膨大な数の助っ人希望者が詰めかけていた。その数およそ50人。社長の目黒さんはなんと全員採用してしまった。ローテーションでおれは当初土曜日に加わった。

上原善二さんという、椎名誠のエッセイにも出てくる編集さんがあるとき

(ちょっと休憩以下いずれ)

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