タイツとロールケーキ
しばらく前から流行っているな。
なんとなく似ているような気もするな。
社会から男一人あたりに分け与えられる富は以前に比べて大幅に減ってきた。
「男の甲斐性」といわれるものの一個人が扱える量が減少してきたのだ。
すると男は、女を慎重に選ぶようになってくる。
女ならだいたいOKというのは昔のこと。
これからは「リスク」になってくるわけだ。
そうすると、女にとってはもどかしい場面が増えてくる。
まあそういうこと。
全産業を合せた就業者数は、1970年より、1995年では1200万人も増えている。
http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/sansyoku/documents/12.pdf
でその、「増えた1200万人」の内訳が、仮に
男600万人、女600万人だとすると、
1970年ごろの社会進出のままだったらなら,
男1000万人、女200万人くらいのバランスだったのではないか。勘だけど。
だとすると、むかしなら苦もなく就職できた男400万人くらいが、
失業しているのだろうな。
これも勘ですけど。
「オバQ」や「怪物くん」など、典型的な藤子漫画は、
主人公の向かう目標が、はっきりしない。
だから時間が進んでいる感じが希薄だ。
でも、主人公があっちの世界に帰ってしまったら、そこで終わり。
いつ唐突に終るかわからない。いわば最終回内包型。
それがある種の緊張感になっている。
「ドラえもん」の世界では,時間がちゃんと進んでいる。
のび太は読者といっしょに学年が上がっていくし,
将来しずかと結婚したい、少しはましな人間になりたい、という目標にむかっている。
ていうかそこがテーマ。
ドラえもんが役目を果たすなどして,
帰ってしまえば、お話は終わり。
でもそれは作者によっていつまでも先延ばしできる。
時間は進みながら,お話は終らない。上手い構造。
*
「名探偵コナン」は、成長が封じられた主人公の物語。
もしそのクスリの効果を解く方法が見つかったら,
または蘭にすべてを気づかれたら、
たぶん物語は終る。これも上手く出来ている。
*
目標がめちゃめちゃはっきりしている漫画も多い。
ていうかそっちが普通か。
「見つけること」「勝つこと」「強くなること」「結ばれること」
これらはいつまでも続けているわけにはいかない。
いずれ終らなくてはならない。
*
「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」の世界は、時間が進んでない。
四季がぐるぐるしてるだけ(たぶん死なない)。
人生に目指す目標や,目的もない。
どうすれば終われるのかが思いつかない。
*
「天才バカボン」「もーれつア太郎」などは、
どんどん過激になっていくという方向しかなかった。
すべて赤塚系ギャグ漫画はその運命の途上にある。
「マカロニほうれん荘」もそうか。
M君が床屋さんに切って欲しい長さを伝えるときの表現。
床屋さんからその言い方で尋ねられ,以来採用しているそうだ。
上手い表現。今度試してみよう。
みんなはどのような言い方に到達しているのだろうか。
天国と地獄がすぐ隣にあるのを感じる装置として,野球は優れている。
一発で入る得点にひじょうに幅があるし,ワンプレーの及ぼす影響が、てこの原理のようにとてつもなく大きくなることがある。
そういう仕組みが、野球のよく出来てるところだなと。
今日伊集院も言ってたのだが、「未来のテレビは、自由な時間に自由な番組を選んで見るようになるんですよー」、みたいなのは俺はもういいと,もう選ぶのが大変で,見なくなる、と。
映画にもそういう一面あるのかな?
いま本数がものすごく多い。で、選べるような感じになってる、シネコンとかで。
選べる感じは一見いいんだけど、
あまりこの方向に拍車がかかると,もう面倒くさくなってぎゃくに観なくなるのでは。
従来、映画は、その時期にはそれしかやってない、だからそれを観た,というのがあったと思う。
で、最近目立つようになってる対のは、
「いまコレ、ということになってる」ものはどれ? という反応の仕方。
だから当たった映画はとことん当たる。
ぎゃくに「ドラゴンボール」とか、いったん外れちゃったとみなすやいなや、もうとことん観ない。
一方で、こんな時代でもそこそこいくな、と思うのはやっぱり、この季節はコレ,という定番感を確立した作品。
だから、金曜7時も、春休みも、手放しちゃいけないんだろうなー。
でも反面、冒険は出来ないなー。
フォン・ブラウン博士は、アポロ計画の広報活動のため,
テレビの「ディズニーチャンネル」に出ずっぱりだったという。
3/20「東京とびもの学会」での、野田司令の話より。
そうして有人宇宙計画の意義を、一般大衆に、
わかりやすく根気よく説いたのだった。
国民に支持されなくなったら,
莫大な税金を使う宇宙計画は成功しないということが分かっていたのだ。
スヌーピーとタイアップしたのも同じ目的。
はっきり言って、世の中で人気のある小説や,漫画,映画,ドラマなどは、ほとんどが、天才、または、天才的な才能を秘めている人、そしてかつて天才だった人など、天才の物語だ。
人はなぜ天才の物語を、まるで自分のことのように喜び,興奮することが出来るのだろうか。
その人物は、まったく全然、自分とは関係ないのに、まるで自分がその天才と一体になったかのように、快哉を叫ぶことが出来るのはなぜだ?
自分はピアノが弾けもしないのに、のだめがあの爆発的な才能を開花させ周りを驚嘆させると、なぜ自分のことのようにうれしいのか。千秋でもないのに。
あぶさんはここぞというところで必ずホームランを打つし、
山岡は必ず起死回生の料理を思いつく。
ハジメちゃんは通りがかりの故障した車を修理してしまい、
三平は結局、幻の巨大魚を釣り上げる。
*
自分以外の個体がセックスをしているのを見て、興奮できるのは,
人とチンパンジーだけであるという。
脳内のミラーニューロンというものの働きらしい。
もし人の脳にその働きがなければ、AV映像などは、全く意味のないものである。
その働きのおかげで、人は童貞であっても加藤鷹になったり、
または男であっても、加藤鷹にイカされている女優になったりして興奮できるのである。
だったら、やっぱり、人はわざわざ読んだり見たりするなら,
天才になって、世界を席巻する物語がいいに決まっている。
それが、いちばん気持ちいいから。
*
そんななか、ダメ男の代表、のび太の物語は、やはり特殊である。
たまにのび太もすばらしい才能を(昼寝やあやとり、射撃など)発揮することがあるが,
基本的にはダメダメ人間である。
とはいえ、のび太はあの不思議な道具によって、すきな才能とか能力を、自由な外付けオプションのように選べる。
そういう意味では、のび太も特別な人物の物語、例えば万能の呪文を知っている男の物語の主人公ではある。
最後にひどい目にあってチャラになることを除けば。
のび太のようになりたいか,なりたくないか。
読者は、微妙なところを行ったり来たりしながら読まされるのだ。
短く「ウン」、という人が増えていて気になる。
親しい友人に対してだけではなく,仕事の電話ですら耳にする。
全体的には敬語を使いながら,相づちだけは「ウン」なので変な感じ。
しかも感染りやすく、つい癖になる。
思わず使いそうになっている自分がいる。
せっかく育てて放したトキが本州に渡ってしまい、
佐渡の人が残念がっているそうだ。気持ちは分かる。
*
放鳥トキ、本州飛来に驚き 「佐渡に戻すべき」の声も2008年11月16日
9月に新潟県佐渡島で放鳥されたトキ10羽のうち、雌1羽が海を渡り、約100キロ離れた新潟県関川村で生息しているのが8日、確認された。島にとどまるとの予想に反する状況に驚きの声が上がる一方、「捕獲して島に戻すべきだ」との意見も出ている。
環境省に寄せられた目撃情報を総合すると、トキは佐渡島から約40キロの新潟市付近に上陸し、その後海沿いを北上したとみられる。
放鳥後に確認されていた8羽の場所はいずれも島内だった。本州での発見に、佐渡トキ保護センターの金子良則獣医師(50)は「聞いた途端『そんなばかな』と思った」と驚きを隠さない。
しかし、佐渡とき保護会顧問の佐藤春雄さん(89)は「過去にも海を渡った例があり、本州まで飛ぶ力はある」と話す。
本来、トキは群れやペアで行動する。佐藤さんは「もし1羽だけなら繁殖できず、天敵から身を守れない。捕獲して佐渡に戻すべきだ」と提案。金子獣医師も「できれば捕まえて佐渡へ連れて帰りたい」との意見だ。(共同)
*
ところで海を渡ろうとしたトキの目に、本州は見えていたのだろうか、とふと疑問に思った。
ネットで調べたところによると,
観測者から水平線までの距離をx、観測者の海面からの目の高さをh(単位はm)とすると、x(m)=3570×√h(m)で算出できる。
>トキは佐渡島から約40キロの新潟市付近に上陸し、
だそうだから、
40000=3570×√h
における、hの値はどのくらいかというと,
11.2044818=√h
となるから、
h=125.540412(m)
トキは、125mほどの高さまで飛べば,本州(の高度0mのところ)が見えることになる。
実際には山があるので,もっと低い位置からでも楽勝で見えるわけだ。
125mぐらい、鳥にとってはなんでもない高さだろう。
また、トキは時速60kmで飛べるとのことだから、時間的にも40分程度で行けるわけだ。
だから、トキが佐渡から本州に渡ることなどたやすいし、だれにも止めることは出来ない。
*
佐藤春雄さんには佐渡にトキの取材に行った際,お会いしたことがある。
92年ごろだから、今から17年前。
当時は72才だったわけだ。あれからも変わらず保護活動。。。
頭が下がる。
たしかにそうなんだよな。。。
健康記事としてはけっこうマニアック。『R25』からの抜粋。
http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/1112009030516?vos=nr25mn0000001
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病気なのか? 生理現象なのか?(掲載日 2009.03.05)
鼻が交互につまるアノ現象
「ネーザル・サイクル」の謎
毎年春になると花粉に怯えるのは、既に花粉症でお悩みの方ばかりではありません。幸いにして花粉の影響を受けない僕も、少し鼻がつまったり目がかゆくなると「もしかして、いよいよ…」とついビクビク。そういえば最近、鼻が左右交互につまることがよくあるんですけど、もしかしてこれって何かの前兆でしょうか? というわけで耳鼻咽喉科専門・神尾記念病院の神尾友信先生に診てもらいました。僕の鼻づまり、どうなんでしょうか?
「これは『ネーザル・サイクル』という生理的現象で、病気ではありませんよ。日本語では『交代性鼻閉』と呼ばれていて、現代人の約3割は鼻の粘膜が3時間周期で左右交互に膨張する体質なのです。通常の鼻腔はネーザル・サイクルが起こっても十分に気道を確保できますが、ストレスやほかの原因と連動すると鼻がつまることがあるのです」
つまり、左右交互に鼻がつまるのは生理現象の範疇だと。では、なぜこんな現象が起こるのですか?
「ネーザル・サイクルが発生する理由は、解明されていない部分も多いのですが、自律神経の働きを司る、間脳の視床下部の働きが作用しているといわれています。鼻づまりはネーザル・サイクル以外では、下甲介粘膜の腫れ、アレルギー性鼻炎、鼻中隔の変形など、様々な要素が絡み合って起こりますが、それらが原因となって常に鼻がつまっている状態だと病気となります」(同)
自分の鼻づまりが病気か生理現象か、どうやって判断したらいいのでしょうか?
「ネーザル・サイクルによる片側の鼻づまりの場合、数時間後には必ず左右が交代します。半日経っても同じ側がつまっていたら、ほかに原因があると思って診察を受けた方がいいかもしれませんね」(同)
春は鼻に神経質になりやすい季節ですが、視床下部の働きはメンタルに影響されやすいので、気にしすぎるのも鼻づまりの一因だとか。ネーザル・サイクルなら一切気にせず、もしほかに病気の前兆が見つかったら早期治療を心がけて。
(峠球四郎/清談社)
Yahoo!ニュース、mixiニュース、その背後に広がるITメディアが、
もう既に雑誌のお株を相当、うばっているわけだが、
最近その傾向に拍車がかかっているように思える。とくにここ数ヶ月ぐらいの感じ。
既存メディアから借りてきたネタだけではなく、独自の取材ソースも増え、
専属ライターによるオリジナルなテキストも日に日に面白くなってきているように思う。
この環境に適した「読ませる技術」もあきらかに向上している感じ。
じつはもっとずっと前から、テレビの雑学バラエティーにも、
「雑誌的手法」を”持ってかれちゃってる”のであるが、
テレビカメラによる映像とスチルカメラによるグラビアは全くちがうものとして、十分にすみ分けられていたし,
放送界のライターと雑誌界のライターも住む世界が違ったので,
どちらかへ流出することは少なかった。
そういう意味では、雑誌のライターがPCを使ってやっている仕事は、
そのままいとも簡単にネットに移植可能であり、
有能なライターはどんどん”仕事のある方へ”流出していく。
*
同時に起きているのは,ブログからの単行本化だ。
雑誌の役目だったところの「連載母体」機能というお株もまた奪っているわけだ。
*
雑誌は今後「有料コンテンツ」のひとつになるだろう。
*
ぎゃくに『R25』はネットのような無料コンテンツを、紙媒体でも出来るということを示した。
さらにもう一ひねりして、『R25』は同じ記事を積極的にネットでも展開しており、今のところ食い合わず両立も出来ているように見える。
*
放送界では、podcastや動画系サイトなどとの、
その手のシャッフルが、すごい勢いで進んでいるのだろう。
*
こういう状況を,どうとらえるか。
おもしろい、と考えるのが普通だろう。
だが、
「だめ、なんかもう手段が多すぎて落ち着かない,もうあっぷあっぷですよ! 」
という感じがまた,送り手,受け手の双方にあるのも事実。
でも最初からこういう状況の中で育ってくる若い人たちにとっては、
これが当たり前なわけで…。
要するにまあそういうこと。
新作が出ると割と試すのだが,
どうも味がくどいし,ドロドロしてるのばかり。
とはいえペヤングはペヤングで湯切り穴が改悪され残念。
http://la.ma.la/blog/diary_200706161347.htm
どういう理由であれ,いちいち爪を3つも立ててられるかと。
湯,出ねー! と気づいてから、
慌ててつめ立てようとして、危うく火傷しそうになった。
おたくのなかでも、絵が描けたり,何らかの表現技術を持っている人は,
余裕があるというか,あっけらかんとしてられるというか,
よく、おたくは暗いとか、ひとくくりにされるけれども,
じつは暗くない人が多いと思う(変態ではあると思うけれども)。
まあなんにせよ、おたくと呼べるレベルの人はすごい。
見るだけにしても、その集中力や持続力。
最近はリスペクトする意味でしか、言葉としても思いつかない。
ラジオが優れていた点の一つに、知らない局の知らない番組にたまたま「出くわす」ということがある。
ただしアナログラジオでなくてはならない。
プリセット、もしくは周波数を知っている局しか聴くことができないデジタルチューナーではだめだ。
ところでいま、podcastは、急速に膨れ上がっているので、整理されきっておらず、玉石混交だが面白い状態にある。
全く異質なものが隣あったりもしており、なにかに「出くわす」可能性があるのだ。
あれをもうちょっとブラウズ機能を工夫して、アナログチューナーっぽく番組を選べるようにならないかな。
つまり、横にスクロールしていくと、正面にきた番組のしゃべりがちょっとずつ聴こえるようにするのだ。
ネット書店もあの感じを取り入れるといいと思う。
カラオケはいっこうに廃れる気配がない。
なぜだろうか。
それは、ちゃんと歌うのが難しいから。
みんなカラオケを愛好しているというよりは,
「チャレンジの対象」として執着しているのだ。
そんなふうに思ったのはなぜかというと、
最近の曲はみんな、
これはいったいどうやって歌うのでしょうか。。。?
という「問題」みたいに難しいからだ。
そういう方向に歌が発達してきている。
これは、歌を作るプロの側が,
カラオケに来る素人の歌唱技術から逃げて逃げて、
こっちの方向に進化してきているからではないかと思う。
*
またじつはもうひとつカラオケが難しくなってきているのは,
とにかく、膨大に曲が選べるようになってきているということがある。
そうすると、どういうことになるかというと、
限られた時間でどの曲を選ぶかがまた「技術」になってきており、
人はけっして、その日の自分の選択に満足することがない。
*
もし人生がこのカラオケのようになって来ているのだとすると,
死ぬときに「ああ満足だった」,などと思うことは、
ますます難しくなっているということだろう。
あれはどうして美味かったんだろう、
あれとこれとはどうちがったんだろう。
もう一回やったらやっぱり美味いだろうか。
みたいな「好奇心」がなければ,
今日(こんにち)のような調理技術は発達しなかっただろう。
日本ではかつて、漫画は子どもが読むものとして隆盛した。
これには、われわれはなんの不思議も持っていないけれども,
はたして普通のことなのだろうか。世界的に見て。
漫画はもともと大人の文化として始まった。
そしていまや漫画は。思春期の少年以上のものと,ふたたび大人の漫画が主流であって,
子ども漫画は、特殊なものになっているように思う。
僕らにとっての松田聖子は、彼女の歌う歌の中に存在していた。
松本隆の作り出した虚構と言ってしまうこともできるかもしれないが、彼女の声と歌唱がなければけっして像を結ぶことはなかっただろう。
他のアイドル歌手たちのなかに、そのように、歌のなかにもうひとつの人格を生きた人はいただろうか。
様々な人格を演じ分けた歌手はいたように思うが、聖子のように明確にひとつの人格でありかつ、まぎれもなくそれも「聖子」であった、つまりほかでもない彼女が歌わなくてはならなかった、
という人物を誕生させ得た歌手がいただろうか。
昔あるバンドのライブに頻繁に通っていて,
3年ほどしてメジャーでブレイクしたので,アルバムがどんどん出るようになったのだが、
違和感があったのは,曲が収録されていく順番。
俺たちがライブで聴いてきた、リアルに曲が誕生してきた順番とは、だいぶちがっていた。
できたての新曲がデビューアルバムに入ったり,
すごく初期のなじみの曲が,やっと3rdアルバムに入ったり。
でもメジャーデビューから聴きはじめた人たちは,
そのリリースの順番が大事で、そこに意味を見いだして論じあったりする。
まあ当然だろうな。
でもアーチスト本人から眺めれば,たまたま、そのときの事情で収録順が決まるわけで,
必ずしも前の曲を踏まえて、後の曲を書いているわけではない。
作家や漫画家についても似たようなことが言えるかな。
どういうことからそういうことを思ったかというと、
昨日ワインをがぶ飲みして、一日非常に気持ち悪く,
「ワインなんて最低の酒だ!」と思って,憎んでいたのだが,
ワインは別に悪くない。俺は体質が合わないだけだ、
ということに気づいたので,まあ、反省ですね。
とにかく、内蔵がどうかなってるときって,理屈じゃないんだなあと思った次第。
インプットしたものを、そのまま出すんじゃなくて,
なにかと一緒にして、新しいものにしてからアウトプットする、それが人間の機能。
人によって、混ぜ合わせる割合も熟成具合もちがう、そこが個性。
知識や体験を、入れて出してるだけでは,それでいくら儲かったとしても,
人間として生きてる意味がない。ただの装置。
東大生には鉛筆の握り方がきれいな子が多い、
正しい握り方をしていると、長時間勉強していても疲れないからや。
というのが、亡き岸本裕史先生の持論だった。
ならば、鉛筆の握り方が重要なのと同様に、
キーボードの打ち方も,本当はきちんと習得すべきだろう。
実社会に出てからは圧倒的にPCで文章を作ることが多くなる。
仕事の疲れ方が違うので、集中できる持続時間が違ってくるし、
創造的な部分に割ける労力も多くなるはずだ。
ふと思ったのだが、せつないという言葉がもし、
もともとは「刹那」に「い」がついた「刹那い」だったとすると、
「NOW」に「い」がついた「ナウい」と、
ほぼ同じ言葉だということになる。
生誕◯◯周年というのはあまり意味がない。
没後◯◯周年という方がまだ意味かあると思うが、それでも、業績を残していない期間を長くおいて亡くなった人の没年には、それほど意味がない。
ダーウインがの生誕200年にはさほど意味がないが,「種の起原」出版150年には意味がある。
ガリレオが望遠鏡を使ってから400年というのには非常に意味がある。
*
太宰治が生まれて100年というのには、何か感慨を禁じ得ない。
まど・みちおさんは、今年11月16日で100才の誕生日だ。お元気でいて欲しい。
日本人の半分が花粉症。半分は花粉症ではない。
以下,だいたい”おれの周りの”人間の割合において半分半分だと感じること。
・半分がオタク的感性を持つ。半分はオタク的感性を持たない。
・半分が政治に興味を持つ。半分は政治に興味を持たない。
・半分が首都圏の出身者、半分は地方出身者。
・半分が年上。半分が年下。(高齢化社会だからか)
・半分が既婚。半分は未婚。
・既婚者の内、半分は子持ち。半分は子持ちでない。
・半分は生活に余裕。半分は生活に不安。
その場の集団が、ある傾向に圧倒的に偏っていれば,話がしやすい。気を使うのは半分半分の時だ。