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September 2008

学力低下問題は存在しないという可能性について考えてみる

いまの子どもたちの本当の賢さが,
観測に引っかかっていないのだという可能性はないか。
大人たちに賢さをアピールすることに興味がないとしたら…(まあそれも低下の一種だろう)。

昔と同じ学力テストを受けさせているとして、
昔は採点の基準が甘かった、または捏造だったということは?(ないか)

学力なんてものが高かった昔の方が異常だったのだという見方はないか。

別に低下してたってかまわないというか、むしろその方がいいという見方は?

学力低下ということにしておいた方が得をする集団による情報操作の可能性。

大人が学生と向き合えはそれは、若い者にぼろが出まくるのは当然で,昔はそれほどコミュニケーション自体が成立していなかったという可能性(それもあり得ねえか)。

知的でない、というのは何らかの生物的防衛である可能性。(低下自体は事実と認めざるを得ない)

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子どもに喜々として何かをやらせる方法

片付けとか,まあ,場合によっては勉強とか,子どもに自分から喜々として何かをやらせようと思ったら,まず、親がそれをふだんから喜々としてやってることが一番効果がある。
さらにいえば、親がそれを独占して,子どもはまだダメ。と禁止しているくらいの方が,子どもは自分もやらせて欲しくて仕方なくなる。

子どもにやれやれと言いながら,自分は眉間にしわを寄せて溜め息つきながらやってる姿を見せていたら、そりゃやりたくなくなるわな。

難しいナ…。

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学力低下の逆説的原因

全国的な学力低下が起きているとして、その原因の、逆説的な仮説。

人は、「やりなさい」と言われるものより,「やるな」と言われるものの方に魅力を感じて、本気を出す性質がある。

外からの動機付けより、中からの衝動の方が絶対強いのだ。

「勉強」はその手の最たるものだ。小さい頃からやれやれと言われるほど、心の底レベルでは嫌いになる。
とくに、「絶対必要なものだから」、「きみ自身のためだから」と言われれば言われるほど,頭でそれが分かれば分かるほど、体は逃げ出したくなる。
もうやんなくていい,と言われると心底ほっとするようになる。

さて、「教育ママ」と言われるものがクローズアップされはじめた時代、ほとんどの日本人は教育に関して今よりずっといい加減だった。
クローズアップされたのは、珍しかったからだ。自分たちと異質だから,揶揄され、批判された。
だから全体としてみると,勉強の面白さを,子どもが自分自身で見つけていくチャンスが今より多かった。
いったん見つけてしまうと,勉強には、ついのめり込んでしまう魅力、魔力があるものだ。

それが逆転したのではないか。教育に関心が高い親はいまや珍しくない。
昔レベルで言うと,現代は教育ママ,教育パパだらけではないか。そしてそれを批判する言説もない。

そんな時代にどうして学力が低下しているのか、本来なら全く謎である。

進学率とかは高くなるでしょう。勉強しやすい環境はますます整っていく。学校がいかに崩壊しても,塾や通信教材の内容は競争の激化でますます洗練され、効率の高いものになっていく。
でも同時に、勉強への心の底レベルでの嫌悪も進んでいるのではないか。

もともと勉強に向いてる子どもたち、全く向いてない子どもたち,というのは昔からいる。そういう子たちは親や世の中がどう変わってもあまり関係ない。
問題なのは、真ん中へんのごく普通の子どもたちだ。

健全な精神を持った、普通の子どもたちは,必要なことはそこそこやるけど、やらなくていい、となったらぱたっとやらなくなる。嫌いなものに対するつきあい方は自然にそうなる。
嫌いなものは,身に付き方が非常に悪い。

二極分化と言われるものの実態は,たぶん真ん中の落ち込みだ。

学力低下は今後ますます激しくなるだろう。



この議論は,「統計的な対象としての大多数の子どもたち」に対してはたぶん正しいが、「目の前のわが子」,にはどうしても適用しづらいのが最大の難点であり、多くの親が苦しんでいる。

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変だからやろうと思ったものメモ

変だからやらない,という判断は正しいだけだから面白くない。

たとえば、「結婚式」とか、「結納」とか、たしかにとても変なものだ。
だからやらない、という選択は正しすぎて、面白くない。

結婚したら片一方の「苗字が変わる」,という制度も変だ。理不尽でもある。
だから名前を変えない,という判断も、非常に正しいがために、面白くはない。

そういう「結婚式しない」「苗字変えない」人多いでしょう、最近。
でも、本人にとっては非常に切実なのことなのかもかもしれない。
だからそれは当人の判断でいいと思う。

だけど自分は,あえて「変なこと」はやってみるのも面白いな,
と思ったので、それらについてはやってみた。
でも、もしそれによって,たいへん辛い思いをしたり,著しく傷ついたり、苦労を背負うのなら、
やっぱりやらなくていんじゃない、と思う。
タバコと一緒だ。

おれにとってその、”たいへん辛い変なもの”とは、
「クリスマス」,「墓」だ。
とても変なものだと思うので、どうしてもやりたくない。
(がまんしてつきあってるけど)

人それぞれですな。


そういえば、高校の卒業式のときに「君が代」を歌う,というのはとりわけ意味が分からなかったな。
自分たちの学業の修了と何の関係もないと思ったから。この場合、天皇陛下が好きか嫌いかは全く関係ない。単におれの高校生活と何の関係もないという、至極真っ当な感覚だ。
だから逆にあんまりあほらしくてナンセンスでゆかいな感じがしたから,(というか、だからといって歌わない,とへそを曲げる態度こそ、ケツの穴が小さいと思ったから)おれは歌った。
「高校時代」は嫌いなわけじゃなかったが,「学校」はあまり好きじゃなかったんですな。

追記:国の代表が戦ってる国際試合で「君が代」を歌うのは,セレモニー的に正しい。

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「叱る」&「怒る」についてのメモ。

最近ふと発見した逆説。

 親は子どもを叱るとき,自分も不得意な分野であるほど、強く叱る。

子どもがなまけているときや、いい加減な態度をとっているとき,
それがかつて自分が苦労した、またはいまも苦手な分野であるほど、
きびしく叱っておかないと後でえらいことになる、という思いや焦りが強く,
ついついキツく叱ってしまう。
おそらくこれは、子どもよって意識にのぼらされた、自分の欠点に対するいらだちでもある。
だからこれは「叱る」というより「怒る」の方にどんどん近づいて行く。

うちの場合、朝ぐずぐずするとか,片付けられないとか、わすれものとか。

偏食については,叱りはするがなぜか甘い。
おれに偏食がほとんどないから、その後の苦労が想像できない。
もし子どもが、意地汚かったり,いつも食べすぎていたら強く叱るのだろう。

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肺さえ丈夫なら

肺と気管さえ丈夫なら,
おれのようなあまのじゃくは
今ごろ面白がって、逆に愛好し、擁護に回っていたはずだ>タバコ。
だって相当変で面白いもの。

タバコから見た文学史,映画史,漫画史なんて編集してみたいし、
自分が読んでみたいな。もし吸えてたら。
(やっぱ煙モクモクしながら作ったり読んだりしないと意味ないでしょう)。

タバコ擁護派の中に,タバコの効用とかを主張する人がいるけどそれは違うな。
タバコは良いところがまるでない、変なものだから面白いんだよ!

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タバコの絶滅もったいない

まえに、タバコは肺オナニーだ(しかも公然で)、みたいなことを,タバコは絶滅しちゃえばいいのにみたいな感覚で書いたような気がするが、
たとえばゴキブリが気持ち悪くて嫌いだからという理由で、絶滅しちゃえというのは乱暴だ、という感覚が、タバコに対しても最近とみに出てきた。
タバコは、このまま廃絶するにはもったいない奇習だ。肺が頑強な人はぜひ、おれが飯食ったりしてないところで、この不思議な文化を守っていって欲しい。

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新聞、テレビ=「壁」についての荒いメモ

家庭の中では、個々人が自分の「壁」を必要としている。
とくに狭い日本の家屋では。

たとえば父親が新聞を読むのは,子どもたちに対してちょっと「壁」を作るためだ。
お父さんはいま、子どもらには分からない大切で難しいものを読んでるから,話しかけるなよ、
という意味の壁なのだ。

また、人はだれでも、テレビをそれとなくちらちら見るだけで,
その場にいる他の人と
”向き合わないですむ”小さな「壁」=「パーテーション」を手に入れることが出来る。

家族以外の、たとえば娘の婿とか,場違いになりかねない客と、家族双方を楽にするためにも、
なんとなくテレビが点いていることは,お互いにとって、良い「壁」だ。

どんなことでも,なにか”自分から積極的に選んでやってるんじゃないこと”,があると、
その場にいる人同士に負担をかけない”免責度の高い”「壁」になり得る。
自分の責任じゃなく「新聞だから読まなきゃ」とか「ニュースだから見なきゃ」とか、
「話題の試合だから取り敢えず気になるし」とかいう感じが良いのだ。

逆に,ケータイをしきりに覗くのは、周りの人をイライラさせる、良くない壁だ。

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恐ろしい考え

「ちょっと目を離しただけで子どもは殺されることがある」という、
そういう”社会通念”がすでにある、がために、
福岡の母親は「狂言が通せる」と思ってしまった。
そのことでふと涌いた殺意の背中を押されてしまったのだ、とすると…、
本当に恐ろしい考えというものは、
個々人の観念の中にあるのか、外にあるのか、
いったい何なんだ、という気がする。

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ウルトラマンの歌の,前半は人間状態の歌

胸につけてる マークは流星
自慢のジエットで 敵をうつ

手にしたカプセル ピカリと光り
百万ワットの かがやきだ

手にしたガンが ビュビュンとうなる
怪獣退治の 専門家


これらはすべて人間状態のときのハヤタの様子を描写した歌詞。

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わかりきっていたこと

パソコンがテレビを殺し,
ケータイは本を殺す。

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逆にするのが定着しているもの

スウェード、眼鏡のフレームを上下逆にしたもの、のり巻きを内外逆に巻いたもの

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「嫌い」=「悪い」ではない

「スカイ・クロラ」を観ていたらボウリングの場面があったので思ったのだが、
(映画とは何の関係もない)、俺ってボウリング嫌いだなー。

たまたまストライクが出ればそれなりに気持ちいいけど,たいていは外すわけで,
なんのためにそんな残念なことを延々とやり続けなくてはならないのかと思う。

ボウリングってなぜかたいてい飲んだ流れとか、けだるい状態でやる。
そんななか、そこそこ楽しいな〜♪という、演技をし続けなくてはならない感じも嫌。
自分の番が来るから義務で投げるのだが,本当に早く終って欲しい。

って、もう10年近くもやってないのだから、こんなこと、ぶつぶつ書いてる必要もないんだがな。

という上の文章を丸ごと(  )に入れてみないといけないと思う今日この頃。
あらためてこういう個人的感情を文章化して垂れ流すのは気をつけないといけない。

極端なこと言うと,「タバコが嫌い」とおれも思うけれども,
「嫌い」と「よくない」は違うのであって,
「誰にとっても「よくない」ので人間はタバコを即刻やめるべきだ」
と思ってるわけではないのだ。
でも、ほとんどの場合,おれが「タバコが嫌い」と言うとそれは、
「タバコはよくない」と言ってるようにとられている。

実際問題としては、「嫌い」は、「悪い」と主張してるととられても仕方ないのである。

じゃあ、なんて言えばいいのかね。
「あまり好きではない」か、
まあ、黙ってるか、なのかね。


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シミュレーション世界の実在感の根拠(書きかけ)

たとえば子供が「ヤッターマン」をどんなに熱心に見ても、
そのパロディの背景にある元ネタや実在世界の歴史の全容は決して知ることができない。
「ヤッターマン」世界のつぶさな観察だけからは、決して知り得ない世界がこの世にあるという、
そのこと自体に気づく段階にもまだ入っていないので、なおさらだ。

だが、その後の人生で,歴史や他の娯楽作品などをいろいろ学習していくと、
ああ、あれはこういうことだったのか,と気づき始める。

さらに、そもそもタツノコプロとか吉田竜夫とかのことを知って,
段々おたくになっていってはじめて、
なるほど「ヤッターマンの世界」というのはこういう企画のもとに設計された、
ひとつの”シミュレーション世界”だったのだな,分かるのである。

そのうえで、ファンは、このシミュレーション世界の、
ある意味の「実在」を感じられるようになる。
それは作り手と同じ視点、すなわち「神の視点」に立てたからである。

おたくになればなるほど、その世界から逃れられなくなるのはまあそういうこと。

「ウルトラ世界」やその他についても同じことだ。

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一生が80年というのは

やっぱり短い。
設定を考え直していただきたい>神

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