岡山の鉄管スロープ

ほぼ岡山と広島にのみ存在するという「鉄管スロープ」を初採取した。
2016年10月9日撮影。
※説明はおいおい付けていきます。

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中央が一番太いという、珍しいパターン。本数も8本で本日の最大。

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1枚前のとは反対向きから撮った別個体。こちらもよく見ると中央が太いパターン。

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山田のぼる問題とセワシ問題

『ホーホケキョとなりの山田くん』(原作/いしいひさいち 脚本・監督/高畑勲)の、
ほぼ冒頭に出てくる、山田のぼるによる、
「親が変わってもぼくはぼくじゃないか」という問いかけ。

それと「ドラえもん」(藤子・F・不二雄)単行本第1話に出てくる、
のび太の孫の孫、セワシによる、
「過去が変わっても結局ぼくは生まれてくる」という説明。

この二つには共通する考え方があると思いながらも、
根本的に違う点があるかもしれないという予感もあり、
これからつらつらと考察を始めたいと思う。

まず<山田のぼるの問い>だが、このような会話である。
ある日ふとのぼるが「もっとかっこよくてお金持ちの家の子に生まれていたら、ぼくの運命も変わっていたんだろうな」とつぶやく。それを聞いたを両親は「ばかだな、親が違ったらお前はそもそも生まれてこないんだぞ」と全否定し、のぼるは「そんなの納得できないよ。変な感じがするよ。親が誰だろうと、ぼくはぼくで、父さんは父さんで、母さんは母さんじゃないか」と反論する。

(続く)

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徳山村と先祖のこと(その9)

結局のところ家系というのは「家」の歴史であって、人間の歴史の一面に過ぎない。

ただ、家系は社会的に有用であるため文書などで記録が残されてきた。そのおかげでタイムマシンを持たないわれわれでもかなり古い歴史まで個人名とともに具体的に辿ることができる。


人間の歴史を生物の歴史として見れば、父親と母親の遺伝子が半分ずつ組み合わされ、子供へとつながってきたという事実がただそこにあるだけである。

しかし人がそこにどういうストーリーを見るかで、家の存続のために個人が犠牲になったり、個人が生き延びるために家を利用したりといった、様々な"人間模様"が浮かび上がってきたりもする。

「名前」はとくに、婚姻関係に基づく社会のルールが強く反映したものであるため、連綿と続く”人生のリレー”を、端的に可視化してくれる。




さらに、名前には集団としての人間の思いのこもった「土地の記憶」も残っていたりする。



万葉集に読まれた和歌

  淡海道(あふみみぢ)の鳥籠の山なる不知哉川(いさやがわ)日(け)のころごろは恋ひつつもあらむ  

  犬上の鳥籠の山にある不知哉川いさとを聞こせ我が名告らすな  


近江にあったといわれ、現在は所在不明のこの「鳥籠の山」が、「徳山」の由来だという説もあるらしい。

(続く)




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徳山村と先祖のこと(その8)

岐阜県揖斐郡徳山村は今はもうない。
1970年代に始まったダム計画によって、466戸約1500人の村民が転出し、1987年に廃村になって、2008年に水の底に沈んでしまった。
いまは「徳山湖」と呼ばれたり「徳山ダム」と呼ばれたりしている。



徳山村にはかつて「徳山」という苗字を最初に名乗った殿様がいたらしい。
徳山村は、地名だけではなく、苗字としての「徳山」の、それもどうやら知られている限り最古の発祥地でもあるらしいのだ。

そのあたりの基本的知識は、数年前に兄から教えられた、個人サイト「徳山姓の研究・徳山ネットワーク」による。

http://www.tokuyama.net

このサイトによると、初めてその領地を「徳山」としたのは「坂上田村麻呂四代の孫」坂上貞守(「田村麻呂の弟、鷹主の子」とも)で、時代は9世紀中頃の平安時代。
初めて「徳山」を苗字としたのは、「貞守三十二代の孫」という徳山貞信で、14世紀末頃の南北朝時代。

ただし、当時は「とこのやま」と称していたらしい。

徳山貞信は息子の貞幸が戦死したため、清和源氏の流れをくむ土岐氏から娘婿として土岐頼長を迎えた。
頼長は名を貞長と変え、彼以降の徳山一族は、清和源氏を称するようになったらしい。



そして、おれの出身地である岡山県笠岡市吉田村の「徳山」一族も、清和源氏土岐氏族の徳山氏の末裔らしい。

実家の菩提寺である高称寺の記録によると、美濃の国を出て、近江の国を経、天正十四年(1586年)に吉田村にたどり着いたとあるのだ。

さて、そこで思うのだが、おれの先祖はやはり清和源氏の方だと言うべきなのだろうか。
それはそれとして、坂上田村麻呂につながる美濃国坂上姓徳山氏へと辿ることも可能なのだろうか。

ポイントは「娘婿」だったということだ。


(つづく)




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徳山村と先祖のこと(その7)

家系はなぜ男をたどると決まってるんだろう。

自分の2代前には4人、3代前には8人、4代前なら16人の先祖がいる。その誰もが先祖として等価である。
10代前には2の10乗=1024人の先祖がいる計算になる。その誰一人として、現在の自分にとって重要でない人はいない。
その中の誰であっても、もし存在しなかったならばこの自分はこの世に生まれてくることは出来なかったのだから。

もし、タイムマシンで過去に行きそのうちの誰かの人生のコースをちょっと変えてしまうだけで、自分はこの世に生まれてこない。
先祖とはそういう存在である。そこへ至る無数の道筋は、どれも等しくかけがえのないものなのだ。

それなのに、この数ある自分の先祖のなかで、父の父の父の父……というふうに男系男子のみを辿った先にいる人だけを、正統な先祖とみなすという考え方が、かなり強い常識として浸透していて、多くの人がとくに疑問にすら思わない。なぜか。

それは言ってしまえば、人間がそういう社会、そういう文化を持つ生物だからだろう。

雄が跡継ぎの権利を有するというのは、文化的約束にすぎない。
人間の場合、おそらくそう決めたことで、社会はより安定的に存続し、世界的に長くその状態であり続け、いまもかくある、ということなのだろう。
だがそうでない社会はあり得ないかというとそんなことはないと思う。

たまたまこの広い宇宙でこの時代に意識を持ったいち存在として、自分のどの筋道の先祖についてどのように想いを馳せるか、それは本来自由であるはずだ。

ちなみにある観点からはごく当然のこととして女系を辿るという"文化"もある。それは「魔女」の家系だ。


(続く)

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徳山村と先祖のこと(その6)

この一連のエントリはプライベートに関することも多いためmixiで書こうかとも思い迷ったのだが、
せっかく「徳山館」なのだし「徳山」に関することはこちらにまとめておこうということで書いています。



さて「徳山」という地名に関して面白いと思うなら、山口県徳山市(平成大合併で周南市)にも行くべきだと思う。そして、今後おそらくなんらか試みるとは思う。

しかしやはり、自分にとって岐阜県「徳山村」の方がより重要なのだった。そてはなぜか。



今年の岡山への帰省の折、たまたま父と晩飯中に観たのがNHKの「GOSISON」という番組だったのだが、
これがとても印象的だった。

様々な有名ご先祖の「子孫」の人を取材するという企画。司会のサンドウィッチマンは伊達氏が伊達政宗の子孫ということで起用されているらしい。
出演者はほかに明智光秀の子孫というクリス・ペプラー氏、バッハの子孫という若い男性タレントなどだった。

取材のメインは中国で、諸葛孔明の子孫と称する人たちばかりが住む村を詳しく紹介していた。

番組自体は面白かったのだが一つ引っかかったのは、子孫もご先祖も男性ばかりだなーということ。
女性ゲストのひとり若槻千夏氏は、あえて自分はサラリーマンの子孫だと強調し、具体的な祖先名を挙げていなかった。
またもう一人の女性ゲスト、三船美佳氏は三船敏郎の子孫といえばそれはそうなのだがなんかはぐらかされた感じがする。

なんでだろう。
なんで祖先を語る子孫は男性ばかりで、かつその対象の祖先も男性ばかりなのだろう。

それは「家系図」というものの作りがどうしても男性中心であり、女性について語りだすと、どうしても微妙なところに入っていかざるを得ないからではないか。


(続く)

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徳山村と先祖のこと(その5)

11年前母が死んで父が一人暮らしになり、命日がある5月の連休と、盆と正月には毎年実家に帰るようになった。
子供が小さいうちはたいてい家族一緒に帰っていたが、大きくなるにつれ子供らにも何かと予定があり、おれ一人で帰ることも多くなった。

昨年2015年のお盆にも一人で帰省。そのときなぜかふと思い立って帰路で途中下車し、長年の懸案だった旧徳山村へのバスによるアプローチを試みた。
しかし無計画のゆえ、途中の道の駅「ほしの里ふじはし」までで断念せざるを得なかった。
(徳山湖まで行くバス路線はなく、タクシーを呼んで行くとしても片道1万円以上かかる)。

しかしその道の駅には旧徳山村の生活用具や農具を実物展示している「徳山民俗資料収蔵庫」があり、藤橋村出身で笠智衆似の案内係の方もとても親切で、非常に良い学習ができた。

その直後、新宿三丁目で増山たづ子さんの小さな写真展があることを知り、元村民の大牧冨士夫さんやご縁のある研究者の方、増山さんファンのA子さんとも会場で久しぶりにお会いするなど、徳山村との縁が立て続けにあり、急速に徳山村熱が再燃し、現在に至るのであった。

以下メモ:

増山たづ子 ミナシマイのあとに
増山たづ子

2015年8月26日(水)〜2015年9月27日(日)

「増山たづ子 ミナシマイのあとに」展が、新宿三丁目・photographers’ galleryにて開催。

2013年に静岡・IZU PHOTO MUSEUMにおいて開催され、好評を博した展覧会「増山たづ子 すべて写真になる日まで」を担当した小原真史をキュレーターに迎え、同展で出品作およびプロジェクションとともに再構成する新たな展覧会。村の「ミナシマイ(終わり)」のあとに遺された写真を展示する。



(続く)

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徳山村と先祖のこと(その4)

徳山村を再び意識するようになったのは、1988年に増山たづ子さんが「徹子の部屋」に出演され、写真集『ありがとう徳山村』が紹介されたのを見たときからだった。

当時住んでいた高円寺の下宿の部屋にて。おれは大学4年生だった。

普段「徹子の部屋」なんて見ないのに、なんでその日に限って見たのかはよく思い出せない。
新聞の番組表に「徳山」の文字があったのをたまたま見つけたからかもしれない。

あの徳山村が、ダムに沈む。そしてもうほぼ村民は移転し終わっており、廃村になっているという事実を知り激しく衝撃を受けた。

『ありがとう徳山村』は速攻で入手。
その後しばらくして、徳山村全村民を撮影した写真集『とくやま』が、神保町の古本屋で格安ワゴンに出ているのを偶然見つけ入手した。離村直前の村民に「補償」の一環として配られたものと思われる。
これも「とくやま」という文字がおれを呼んだとしか思えない。

当時、それらの写真集を見たことで、おれはもう、徳山村は終わってしまい、手の届かないところに行ってしまった、と思い込んでしまった気がする。

しかし、じっさいはそうでもなかったのだ。

ダムの完成にはそれから約17年を要し、徳山村が水に沈むまでにはじつは相当な間があった。

今から思えば、学生時代、まだ自由になる時間が圧倒的にあったあの時代に、どうしてなんとかして徳山村に行ってみようと思わなかったのだろう。
青春18切符で大垣まで行けば、なんとかして(歩いてでも)たどりつけたのではないか。悔やまれてならない。

写真家の大西暢夫さんが、東京から徳山村に足繁く通い、貴重な写真やビデオ映像を残されるのはその少し後、1990年ごろからであった。

おれはそのころ会社に入り、とても徳山村のことを思い出すどころではない日々に突入していた。
(つづく)

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徳山村と先祖のこと(その3)

徳山村という村がダムに沈むらしいと知ったのはいつぐらいのことだったろうか。
地図帳で見つけた1974〜6年ごろにはもうそういう話になっていたそうだが、きちんと知ったのはいつなのか、記憶は定かでない。

ダムに村が沈むということは高度成長期の日本各地で起きており、一般的知識としては「ドラえもん」だったり、漫画誌の読み物などで知っていた。

最初に強烈に「怖い話」として読んだ記憶があるのは、ある少年誌に実話として書かれていた、山奥の道路に少年の霊が出るという怪談で、その少年は閉村になる村の空き家でかくれんぼをしていて、うっかり眠ってしまうのだ。それでサイレンの音で目を覚ました時にはもう遅く、水が洪水のように押し寄せて、家に入って来ようとするのを塞ごうと必死に布を裂いて窓の隙間に詰めたりするのだが、ついに溺れ死んでしまうという描写が実にリアルで恐ろしかった。
考えてみたら少年は死んでしまったのだからだれがその様子を見ていたのかという話なのだが、とにかくその怪談では、あるカーブで居眠り運転の車が湖に落ちそうになる寸前で少年の声が起こして助けてくれるという話になっていた。

えらく脱線した。

(つづく)

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徳山村と先祖のこと(その2)

おれが「徳山村」の存在を初めて知ったのは、早くて1974年、遅くとも1976年ごろだった。

小学校四年生で帝国書院の地図帳をもらい、眺めているうちに「徳山村」という地名を岐阜県の山の中に見つけた。
それが2つ上の兄による発見だったのか、一緒に見ていた父の発見だったのか定かではないが、
とにかくおれたち徳山姓の人間にとって「徳山」という文字の並びは特別な目立ち方をするのだった。
そしてわれわれ岡山県笠岡市吉田村に住む徳山一族と、なにか縁があるのだろうか、ということもそのときすでに思ったと思う。

同じ「徳山」でも、山口県の新幹線の駅にもなっている「徳山市」のほうには、それほど”親戚”っぽさは感じなかった。
なのになぜか、岐阜県のそれには不思議とひっかかるものを感じた。
それは、我々の住んでいた吉田村も、それなりにけっこう山の中であったことも関係しているかもしれない。



さて、しかし一般に地名と苗字は別のものである。
笠岡市吉田村に「吉田」さんという人が住んでいた記憶はおれはない。

だが、土地の名前が苗字の発生源になっている場合もあることはあるようだ。

そしてかつて徳山村にも徳山姓があったようなのである。


(つづく)




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