逆時計の正体

逆時計についてもう少し丁寧に真面目に考えてみる。

逆時計で5分後に戻る操作を行ったとする。
その操作を始めた瞬間を境に、世界は「鏡に映したように」全てが5分前の過去の方へと向かって逆戻りし、またそこから反転して、新たに前向きに時間を刻み始める。

その際重要なのは、折り返しが起きたとき、逆時計の操作者である自分だけはその変化の外にいなくてはならない、ということだ。
そうでないと逆時計には「何の意味もない」ということになる。

逆時計を操作した自分の行為も含んで全世界の時間を一斉に折り返し、また逆に折り返す、という操作をいくら行っても、その世界と一緒に自分も変化しながら眺めているかぎり、世界には何の変化も起きていないように見えるだろう。

世界全体に対する操作を行うとき、その操作者だけは「外」にいられる、という、この都合のいい設計はどのようにしたら可能なのだろうか。

「ハイパースペース」のようなところに一時避難するのだろうか。
ドラえもんで言えば、「もしもボックス」の中や、「タイムマシンの超空間」のようなものだろうか。

しかしドラえもんの「逆時計」の描写では、そういう特別な空間に入らずにむき出しで使っているところが不思議である。
また、「操作者がいない世界」が逆戻りし、操作者はみんなが逆向きに動くのを傍観するするのだが、本当に「正しい逆戻り」なのであるならどうしても無理が生じることになる。

本来は自分も世界の一部なのであるから、自分だけが逆戻りする世界の外にいて眺めていていいということはありえない。車の運転をしていた時間があるとすると、運転席から自分が忽然と消えていいわけはない。

そこから導かれる結論だが、「逆時計」は本当は世界の時間を過去へと逆転させているのでは「ない」ということになる。

逆時計は、操作している本人以外の全世界を、あたかも過去そうであった状態へ戻っていくかのように「書き換えている」のだ。
そのとき本当の過去で本人が果たしていた役割は、都合よくほかの誰かに代行されるように調整しながら書き換えていく。そういう道具なのだ。


ここで生じる疑いは、「もしもボックス」も「タイムマシン」も実はそういう機械なのではないか、という可能性である。

並行世界や、別の時間に自分の体を移動させてくれる道具だという風に描かれているが、そうではなく、
自分を一旦世界から切り離しておいてその間に世界を望みの通りに書き換え、その中に入っていく道具だと考えてもいいのである。

身も蓋もない話だが、「漫画を描く」という行為はそういうことでもある。
漫画の登場人物が過去に行くということは、漫画家が過去の世界を「あらたに」描くということである。
ということはそれはやはり未来のことなのである。

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逆時計と自分殺し

逆時計は過去へ戻る機械だろうか。
そうではない可能性がある。
だとすると「自分殺し」が可能になるのではないかと思われる。

「自分が過去へ戻る」のではなく、「世界を過去の状態に戻す」のであれば、逆時計で行く先は、それは過去そっくりではあっても「過去」ではなく「未来」である。

因果関係的にも、逆時計の操作を原因として作られた未来の世界だといえる。

そこにそっくりなもう一人の自分がいたとしても、それは現在の自分から分岐して生まれたコピーにすぎないので、殺してしまっても矛盾は生じないはずだ。

二人の自分は同じ時間の中に存在する自分として物質的には同等である。
ただし、逆時計を操作した方の自分の方が〈私〉を連続的に保持しているであろうとは思う(たぶん)。
逆時計が使われたという事実を知っているのはその〈私〉だけだ。

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自分が行くのではないタイムトラベル

自分が行くのではないタイムトラベル

自分が過去に移動するのではなく、自分の周りの世界を丸ごと過去の状態に戻してしまうタイムマシンがあったら(他人の迷惑はこの際考えない)どうだろうか。

世界に対してCtrl+ Zを押し続ける装置とでも言おうか。

ドラえもんで言えば逆時計を回し続けるということ。

このタイムトラベルでは逆時計を握っている自分が、本当はそこにいなかった過去のある時点に出現するということになる。

日曜日の午後、のび太が空き地で逆時計を作動させ世界を2日前に戻すと、金曜日のその時間ののび太は学校におり、空き地に2日後から来たのび太がもう1人出現するということになるだろう。

もう少し詳しく見て行くと、逆時計を空き地で作動させた瞬間、のび太が2人に分裂し、その場所から1人離れて逆向きに歩き出し、一度家に帰って布団に入り、布団を出て逆向きに風呂に入ったり、口から食べ物を食卓に戻したりしてから、逆向きに歩いて学校に行くというようなことを二回繰り返す。

さてこのように自分がもう1人現れるといろいろ厄介な事が起きる。自分殺しのパラドクスなどだ。


ではそうならないような逆時計はあり得るだろうか。
自分を増やさない逆時計だ。

このタイプの逆時計は、周囲をだんだん過去の状態へと連続的に変化させるのではなく、世界を過去のある状態と同じでありかつ自分を消去した状態に瞬間的に変化させる。そうすれば自分が分裂して別の場所にいる状態を作り出さずに済むだろう。


2日前に戻ったとすると、その日教室でその瞬間まで席にいたのび太が忽然と消え、なぜか空き地に出現したという形になるだろう。瞬間移動したと見えるかもしれない。しかしなぜか服が着替えられ上履きではなく運動靴を履いている。(上履きはどこへ消えてしまったのだろう)

組体操をしていた時間などに戻ると大変なことになる。支えていた人間が一人忽然と消えてしまうからだ。大事故につながりかねない。

そのほかどんな些細なことであろうと自分がいたことを消去すると周囲に大変な影響を及ぼしてしまう。

そこで、このタイプの逆時計を作動するときは、確実に過去自分がいた場所にぴったり姿勢も合わせて行うのが良いということになる。

「アバウトタイム」という映画では、タイムリーパーは必ずクローゼットに入ってから時間のジャンプを行い、クローゼットから出てくるという形をとっていた。それならば人にその瞬間を見られてしまうこともないし、自分もある程度心を落ち着けて過去の世界に入って行ける。

ただこのやり方だと、過去の好きな時間に現れることは難しい。

一人で寝ているときにするとかなら、1日に一度は決まった場所で寝ていることが多いだろうから、行く日はかなり選べることになる。

「君の名は。」の入れ替わりはじつはタイムリープでもあったわけだが必ず目覚めの時にしたのは理にかなっている。

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府中米軍基地跡「府中トロポサイト」

かつて一度車の中から見たことのある、米軍府中基地の巨大パラボラアンテナ。
最近ネットの何かでたまたま見て「今すぐ見ておかないとなくなる」と焦る気持ちでいたのだが、
『ローグ・ワン』を観てこれはアンテナ映画だ! と思ったその勢いで、翌日見に行くことにした。

最初は自転車で行こうと考えていたが、風邪気味で体力が心配ということもあって、電車で北府中駅から徒歩でアプローチした。

2017年1月15日撮影。

コメントはおいおい追加していきます。
写真取りあえずアップ。いずれ整理。


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タイムマシン完全無矛盾化理論

もう、
「可能世界」とかケチなことを言わないで、
親殺しだろうが、考案者のいない発明の突如とした出現だろうが、5分前世界創造だろうが、
すべてが急に出現する世界も、
すべてが急に終わる世界も、
つじつまの通っていることも、
通っていないことも、
もう本当に「すべて」が、完全に稠密に、全部最初からいっぺんにあるのだ。
ということを認めてしまえば、
タイムパラドクスなどの矛盾などなにも起きないし起きようがないのではないか。

で、そこまで言っても最期までたった一つ残る謎はやはり、
なぜその無限の存在の中の、今ここだけに、この私がいるのか、
という永井均的な謎だけである、

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自分と出会わないタイムマシンの可能性

過去に出かけて行っても、そこにいる過去の自分と出会わないようなタイムマシンはあり得るか。

ふつう、タイムマシンで過去に行くと、そこにはタイムマシンに乗る時点より前の自分がいるはずである。
その自分に対し直接であれ間接的であれ干渉してしまうことによって様々な矛盾が生じ、タイムマシンをめぐる議論を非常に厄介なものにしている。

そこで、世界がもし書き換え可能な物語のようなものだったらどうか。

ある種のタイムマシンに乗り、いまから5年前の何月何日の何時に装置をセットする。
するとそのタイムマシンも含む全世界が一斉にその時間の状態に書きかわるのである。
ワープロで書かれている小説を以前のある状態に戻すといった感じで。

タイムマシンから外に出ればその世界には5歳若い自分がいるはずだ。
しかしそこがうまくつじつまが合うように書き換わり、そこには過去の自分はおらず、なぜか外見が5歳若返っている自分がそこに馴染んで入っていく。

50年前、100年前の場合、世界の書き換えはそれに即したものになる。

物語だからどうにでもなるのだ。

そういう装置としてのタイムマシン。


ここまで書いた気づいたのは、
世界書き直し型のタイムマシンの場合、
自分殺しや親殺しのパラドクスはそもそも全く心配ないのだった。

なぜなら自分の存在の原因となった過去の自分や過去の親は、
書き換えられたのであって、「真の過去」にはちゃんと存在している。

このタイプのタイムマシンでは、過去へのタイムトラベルは新しく世界ごと生まれた別の世界に移り住むことに他ならない。(言うなれば、タイムトラベルをしているようで、実は時間は普通に未来へ進行しているだけなのだ。)

なのでそこにべつの自分がもう一人いたとしても、干渉自由だし、殺したりしてもこの自分には関係ない。何をしようと自由である。

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謹賀新年

20176


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「この世界」用例収集:夏目漱石「三四郎」1908年

夏目漱石「三四郎」より
初出:「朝日新聞」1908(明治41)年9月1日~12月29日
(※青空文庫より引用)

三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば立退場のようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に彽徊して旧歓をあたためる。
第二の世界のうちには、苔のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。 
第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい不精な髭をはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者は俯向いて歩いている。服装は必ずきたない。生計はきっと貧乏である。そうして晏如としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅をのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。 
第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性がある。三四郎はその女性の一人に口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くからこの世界をながめて、不思議に思う。 自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうべきはずのこの世界がかえってみずからを束縛して、自分が自由に出入すべき通路をふさいでいる。三四郎にはこれが不思議であった。 
三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互いに比較してみた。次にこの三つの世界をかき混ぜて、そのなかから一つの結果を得た。──要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねるにこしたことはない。 
結果はすこぶる平凡である。けれどもこの結果に到着するまえにいろいろ考えたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身からみると、それほど平凡ではなかった。
ただこうすると広い第三の世界を眇たる一個の細君で代表させることになる。美しい女性はたくさんある。美しい女性を翻訳するといろいろになる。──三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。──いやしくも人格上の言葉に翻訳のできるかぎりは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を全からしむるために、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にするようなものである。 
三四郎は論理をここまで延長してみて、少し広田さんにかぶれたなと思った。実際のところは、これほど痛切に不足を感じていなかったからである。 
翌日学校へ出ると講義は例によってつまらないが、室内の空気は依然として俗を離れているので、午後三時までのあいだに、すっかり第二の世界の人となりおおせて、さも偉人のような態度をもって、追分の交番の前まで来ると、ばったり与次郎に出会った。

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岡山の鉄管スロープ

ほぼ岡山と広島にのみ存在するという「鉄管スロープ」を初採取した。
2016年10月9日撮影。
※説明はおいおい付けていきます。

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中央が一番太いという、珍しいパターン。本数も8本で本日の最大。

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1枚前のとは反対向きから撮った別個体。こちらもよく見ると中央が太いパターン。

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山田のぼる問題とセワシ問題

『ホーホケキョとなりの山田くん』(原作/いしいひさいち 脚本・監督/高畑勲)の、
ほぼ冒頭に出てくる、山田のぼるによる、
「親が変わってもぼくはぼくじゃないか」という問いかけ。

それと「ドラえもん」(藤子・F・不二雄)単行本第1話に出てくる、
のび太の孫の孫、セワシによる、
「過去が変わっても結局ぼくは生まれてくる」という説明。

この二つには共通する考え方があると思いながらも、
根本的に違う点があるかもしれないという予感もあり、
これからつらつらと考察を始めたいと思う。

まず<山田のぼるの問い>だが、このような会話である。
ある日ふとのぼるが「もっとかっこよくてお金持ちの家の子に生まれていたら、ぼくの運命も変わっていたんだろうな」とつぶやく。それを聞いたを両親は「ばかだな、親が違ったらお前はそもそも生まれてこないんだぞ」と全否定し、のぼるは「そんなの納得できないよ。変な感じがするよ。親が誰だろうと、ぼくはぼくで、父さんは父さんで、母さんは母さんじゃないか」と反論する。

(続く)

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