逆時計の正体

逆時計についてもう少し丁寧に真面目に考えてみる。

逆時計で5分前に戻る操作を行ったとする。
その操作を始めた瞬間を境に、世界は「鏡に映したように」全てが5分前の過去の方へと向かって逆戻りし、またそこから反転して、新たに前向きに時間を刻み始める。

その際重要なのは、折り返しが起きたとき、逆時計の操作者である自分だけはその変化の外にいなくてはならない、ということだ。
そうでないと逆時計には「何の意味もない」ということになる。


» Continue reading

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

逆時計と自分殺し

逆時計は過去へ戻る機械だろうか。
そうではない可能性がある。
だとすると「自分殺し」が可能になるのではないかと思われる。

「自分が過去へ戻る」のではなく、「世界を過去の状態に戻す」のであれば、逆時計で行く先は、それは過去そっくりではあっても「過去」ではなく「未来」である。

» Continue reading

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

自分が行くのではないタイムトラベル

自分が行くのではないタイムトラベル

自分が過去に移動するのではなく、自分の周りの世界を丸ごと過去の状態に戻してしまうタイムマシンがあったら(他人の迷惑はこの際考えない)どうだろうか。

世界に対してCtrl+ Zを押し続ける装置とでも言おうか。

ドラえもんで言えば逆時計を回し続けるということ。

» Continue reading

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

府中米軍基地跡「府中トロポサイト」

かつて一度車の中から見たことのある、米軍府中基地の巨大パラボラアンテナ。
最近ネットの何かでたまたま見て「今すぐ見ておかないとなくなる」と焦る気持ちでいたのだが、
『ローグ・ワン』を観てこれはアンテナ映画だ! と思ったその勢いで、翌日見に行くことにした。

最初は自転車で行こうと考えていたが、風邪気味で体力が心配ということもあって、電車で北府中駅から徒歩でアプローチした。

2017年1月15日撮影。

コメントはおいおい追加していきます。
写真取りあえずアップ。いずれ整理。


Rimg0002

Rimg0003


Rimg0005

Rimg0008


Rimg0010_2


Rimg0034


Rimg0023


Rimg0017


Rimg0030


Rimg0037

Rimg0093


Rimg0097


Rimg0098

Rimg0045


Rimg0047


Rimg00412


Rimg0060


Rimg0066


Rimg0069


Rimg0072_3

Rimg0073


Rimg0078


Rimg0083


Rimg0086


Rimg0102


Rimg0105


Rimg0115

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

タイムマシン完全無矛盾化理論

もう、
「可能世界」とかケチなことを言わないで、
親殺しだろうが、考案者のいない発明の突如とした出現だろうが、5分前世界創造だろうが、
すべてが急に出現する世界も、
すべてが急に終わる世界も、
つじつまの通っていることも、
通っていないことも、
もう本当に「すべて」が、完全に稠密に、全部最初からいっぺんにあるのだ。
ということを認めてしまえば、
タイムパラドクスなどの矛盾などなにも起きないし起きようがないのではないか。

で、そこまで言っても最期までたった一つ残る謎はやはり、
なぜその無限の存在の中の、今ここだけに、この私がいるのか、
という永井均的な謎だけである、

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

自分と出会わないタイムマシンの可能性

過去に出かけて行っても、そこにいる過去の自分と出会わないようなタイムマシンはあり得るか。

ふつう、タイムマシンで過去に行くと、そこにはタイムマシンに乗る時点より前の自分がいるはずである。
その自分に対し直接であれ間接的であれ干渉してしまうことによって様々な矛盾が生じ、タイムマシンをめぐる議論を非常に厄介なものにしている。

そこで、世界がもし書き換え可能な物語のようなものだったらどうか。


» Continue reading

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

謹賀新年

20176


| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

「この世界」用例収集:夏目漱石「三四郎」1908年

夏目漱石「三四郎」より
初出:「朝日新聞」1908(明治41)年9月1日~12月29日
(※青空文庫より引用)

» Continue reading

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

岡山の鉄管スロープ

ほぼ岡山と広島にのみ存在するという「鉄管スロープ」を初採取した。
2016年10月9日撮影。
※説明はおいおい付けていきます。

Img_08771


Img_08781


Img_10211


Img_10351


Img_10381


Img_10411


Img_10441


Img_10451


Img_10471


Img_10501


Img_10531


Img_10571


Img_10631


Img_10731


Img_10831

Img_10891
中央が一番太いという、珍しいパターン。本数も8本で本日の最大。

Img_10901
1枚前のとは反対向きから撮った別個体。こちらもよく見ると中央が太いパターン。

Img_10951


Img_10991

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

山田のぼる問題とセワシ問題

『ホーホケキョとなりの山田くん』(原作/いしいひさいち 脚本・監督/高畑勲)の、
ほぼ冒頭に出てくる、山田のぼるによる、
「親が変わってもぼくはぼくじゃないか」という問いかけ。

それと「ドラえもん」(藤子・F・不二雄)単行本第1話に出てくる、
のび太の孫の孫、セワシによる、
「過去が変わっても結局ぼくは生まれてくる」という説明。

この二つには共通する考え方があると思いながらも、
根本的に違う点があるかもしれないという予感もあり、
これからつらつらと考察を始めたいと思う。

まず<山田のぼるの問い>だが、このような会話である。
ある日ふとのぼるが「もっとかっこよくてお金持ちの家の子に生まれていたら、ぼくの運命も変わっていたんだろうな」とつぶやく。それを聞いたを両親は「ばかだな、親が違ったらお前はそもそも生まれてこないんだぞ」と全否定し、のぼるは「そんなの納得できないよ。変な感じがするよ。親が誰だろうと、ぼくはぼくで、父さんは父さんで、母さんは母さんじゃないか」と反論する。

(続く)

| | Comments (0) | TrackBack (0)
|

«徳山村と先祖のこと(その9)