歴史にてこの原理が働くとき
いつもと変わりなく続いていたはずの日々の中で、
些細な行き違いやトラブルが一気に増幅され、大事になる瞬間がなぜかある。
海の波も、なぜかうねりが急に集まって大きくなる魔の瞬間があるという。
交通事故などでも、ごくまれに大惨事となる事故というのはそういうときに起きるのではないか。
偶然のつらなりに過ぎない歴史にとっては、それもまたコミなのだろう。
いつもと変わりなく続いていたはずの日々の中で、
些細な行き違いやトラブルが一気に増幅され、大事になる瞬間がなぜかある。
海の波も、なぜかうねりが急に集まって大きくなる魔の瞬間があるという。
交通事故などでも、ごくまれに大惨事となる事故というのはそういうときに起きるのではないか。
偶然のつらなりに過ぎない歴史にとっては、それもまたコミなのだろう。
道の上を、低い視点でうろうろしているだけでは、
なかなか頭の中に地図が描けない。
「地図を描く」とは、高い位置から見下ろした視点を思い描くこと、
すなわち「俯瞰」する視点をもつことだと言える。
時間に対しても同じようなことが言えるだろう。
子どもは時間の流れの中にただ生きている。
だから時間の中で生起した出来事の関係性を「俯瞰」できない。
すなわち時間を「要約」することができない。
じつは前も同じ結論に達してるのだがあらためて確認しておくと、
子どもは自分の過ごした時間を「要約」できない。
頭から最後まで同じように再生するしか、過去を振り返る方法を知らない。
(子どもの作文がしばしばそういうことになる)。
一方、大人は、過去を要約して語ることができる。
大人がしばしば、ものすごく速く過ぎた!と思うような一週間は、
ものすごく簡単に要約できるような内容の週だったのだのだと言える。
それは何度も繰り返したパターンにはまった週だったのだ。
子どもにはそういうパターンがまだない。
毎日が初めて知ることや新しい体験の連続だ。
さらに、言語的に要約の技術も習得していない。
だから過去を要約できない。
そんなわけで、子どもの振り返る一週間は、
大人が振り返る一週間より明らかにどうしようもなく長いのだ。
これはコンピュータの「圧縮」にも似ている。
まったく圧縮していないデータはとても重いので、
再生するのに時間がかかる。
子どもの体験する時間は、
非常に雑多なデータをランダムに全部取り込んでいるので、
ほとんど圧縮できない。
一方、大人は長い人生の経験から、自分にとって意味のあるデータだけを選んで取り込み、
さらに同じような体験をパターン化してうまく圧縮してしまうので、
データがとても軽い。
あっという間に解凍し、再生できてしまう。
子どもがよく忘れ物をしたり、
昨日の晩ご飯を聞いても覚えていない、みたいなことがあるが、
それは過去を覚えていないのではなく、
うまく要約して記憶を整理することができていないので、思い出せないだけなのだ。
でもデータだけは十分重いので、
けっして過去が短かかったというふうには感じないのだ。
まあそういうことなのだろう。
身も蓋もないが、
時間が経つのが年々速く感じる原因のひとつは、
記憶力の低下だと思う。
記憶はしていても、思い出す力が低下しているというか。
過去のある期間に対し、思い出の項目が大量にすらすらあがってくるときは、
分厚い本を読み返してるのと同じで、長かったと感じるのは当然。
脳の記憶読み出しにかかる処理速度の低下ともいえる。
*
とはいえ不思議なのは、
子どもに一週間前何してた?とか
昨日の晩ご飯何食べた?とか聞くと、
ほとんどなにも思い出せなかったりする。
久米宏氏が最近ラジオでよく時間の過ぎる速さについて述べている。
先日の放送
http://podcast.tbsradio.jp/kume954/files/20111224.mp3
では、「新陳代謝の低下が周りの時間を速く感じる原因」との、
福岡伸一氏の理論を紹介しつつ、
自分は、中学時代から時間が速く過ぎていると感じており、
それは周りの大人たちから「速く過ぎる、速く過ぎる」と聴かされ過ぎた影響ではないか?
との考察を述べていた。
すなわち周りに影響された「気のせい」であるというのが久米氏の解釈。
別の日には「今年の冬は本当に寒いですよね?」と言い、その後で
「これは本当に寒いのか、自分が歳とったということなのか、どっちなのか?」
と述べていた。「自分の感覚」という基準を根本的に疑っているのだ。
そういう視点をよく持ち出すのが最近の久米氏の面白いところだ。
*
おれも、さすがに「気のせい」という表現はざっくりし過ぎだと思うが、
時間の長短の感じ方には「感情」がかなり影響しているのではないかと思う。
以前も、「時間が速く過ぎた」と感じる理由は、
そこに”惜しさ”の感情があるかどうかだ、
ということを書いた。”焦り”と言ってもいい。
感情に左右されているのは、時間感覚だけではない。
例えばお金についても言える。
”惜しい”と感じる金額ほど、あきらかに大きく感じる。
無駄遣いしたと思ったお金はたとえ50円でもすごく損した気になる。
納得して使えば5万円などたいしたことないと思えることもある。
「逃した魚は大きい」と言うことばもある。
しかしここで不思議なのは、
失って”惜しい”と思う時間は”短かった”と思い、
十分満足感を得たと思う時間は”長かった”と思うということだ。
なんだか、逆のように感じる。
喪失感のある時間は”長かった”と感じても良さそうなものだが、
なぜ”短かった”と感じるのだろう。
*
考察に行き詰まったので今日はここまで。
ムスメを体操教室に送って、空いた時間に再訪。
去年までとちがって、小学生になるとずっと見学してなくていいので、こんな時間がぽっかり細切れにできる。

シンプルの極みだが見る角度で大きく表情が変わる、非常に好きな塔。
現代彫刻に引けを取らないと思う。

これができるなら、メビウスの輪だってありじゃないか? 非常に可能性を感じさせる遊具だ。

新しいといえば、さて、この手の材質の遊具も、じゅうぶんに時が経てば郷愁の対象になるか否か?
「なる」と頭では理解する。
おれたちがいまセメントの瓦や、動物遊具などに感じている郷愁は、20個前の世代には未だに拒否反応があるだろうと思う。「あんな安っぽいもの」と。
それと同じことがただ繰り返されているだけという、納得しにくい事実、を、おれたちはもう飲み込めるはずなのだが。
(横浜市青葉区桜台団地 2011年9月19日撮影)
大倉山ヒルタウン。
ビンテージマンションとして知る人ぞ知る物件。
1975年竣工。35年も経つのに古びた感じがまったくなく、ますます風格がある。
↓とても参考になるサイト。
http://plaza.rakuten.co.jp/ta1ro/diary/200607170000/
そんなあこがれの高級集合住宅に、給水塔があるのがまた素晴らしいじゃないか。
おなじみの庶民的団地の給水塔とはまた違う、小洒落た(←あんまり好きじゃない言葉)雰囲気。
とはいえこれもまた、まぎれもなく古き良き昭和の建築物なのだった。
この塔はここ15年くらい、
何十回と往復している川沿いの土手からはるか遠方にちらりと見えていたもの。
給水塔が面白いのは、いつも遠くから眺めてて、
たぶんありふれた物件だろうと勝手に想像していたのを
ある日とうとう現地で対面してみると
まったく想像と違っている場合がよくあることだ。
それ以降、なじみの風景の意味合いががらりと変わる。
何度体験してもこたえられない醍醐味だ。
もうひとつ面白いのは、
給水塔は遠景から見れば見るほど巨大な物体に見えること。
ある種の錯覚なのだろうが、
現地で見たらこぢんまりしてたあれが、なぜこんなに!? という、
ふしぎな感じがこのあともずっと続くかと思うと、
おもわずほくそ笑むほど愉しい。
2011年6月26日撮影